◆何事も、自然体で臨むしかない。
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作成日時 : 2008/11/18 18:21
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先日、NHK−TVで放送された、「その時、歴史は動いた」を視て、キング牧師が率いた「1960年代初頭のアメリカにおける公民権運動のポイント」を整理して、メモに書いた。
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放送タイトルは、「第342回 <I Have a Dream>〜キング牧師のアメリカ市民革命〜」
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〔1〕1950年代当時に至っても、White-American(白色人種系アメリカ人)は奴隷制度時代の感覚を引きずり、Afro-American(アフリカ系アメリカ人)を差別しているとの認識を持たず、またAfro-Americanのほうも差別されている認識に乏しかった。
*州によっては、州法で人種隔離政策が容認され、White-AmericanとAfro-Americanは結婚してはならないといった理不尽な法律が罷り通る、おぞましい実情だったにも関わらず。
*虐げられていたAfro-Americanは、「自分たちの国」アメリカの憲法や法律、民主主義の本質について、積極的に学んでいなかったからだ。
〔2〕「キング牧師の呼び掛けによって、Afro-Americanは、法律や民主主義、そして社会について「学ぶことを学んだ」。
〔3〕あくまで「非暴力」を貫いたキング牧師のアクション。インド独立運動の指導者、マハトマ・ガンジーの非暴力的抵抗の手法に影響を受けていた。キング牧師曰く、「『自由』と『正義』の闘いにおいて最も強力な武器とは『非暴力』なのです。」「『正義』は『正義』によってこそ実現されなくてはなりません」と。
*非暴力であったにせよ、抵抗運動には相当の犠牲的精神が求められた。
*「バス・ボイコット運動」(ここを参照)では当然、体力の弱い人ほどつらい思いをしただろう。
*しかし、Afro-Americanは決してめげなかった。むしろ、犠牲的協力を惜しまなかった。
〔4〕Afro-Americanは、徐々に覚醒し、差別を受けていることは正義に反する実態だと気付き始め、その気付きの連鎖が、Afro-Americanの「団結」をもたらした。
〔5〕非暴力主義=「決して暴力に訴えないという正義の概念によって、正義を実現しようとのアクション」に、心あるWhite-Americanも共感を覚えた。
*〔Afro-American×White-American〕という対立の構図に陥らないよう、最大限の努力が図られた。
〔6〕心あるWhite-AmericanとAfro-Americanが、ともに手を携えて公民権運動を盛り立て、このアクションは普遍的な意義を獲得した。
日本の現状に目を転じる。上述の〔1〕と似ている。
〔傾向1〕ヘテロPeopleは、LGBTをことさら差別している認識を持たず、またLGBTのほうも、極端に差別されている認識に乏しい。
「差別」という言葉を、僕もあまり使いたくない。だから、つい「差別意識」と言い換えたりしてきた。しかし、堂々と「僕はゲイです」と言えない背景にあるものは何なのか、よくよく考えてみたほうが良い。やはり、差別は歴然とあるのだ。
〔傾向2〕世間的に、セクシュアリティーをもとにした隔離・分断が容認され、また、同性パートナー同士は結婚できるわけがないといった理不尽な常識が罷り通る、おぞましい実情。
「結婚」でなくても構わない。シビル・パートナー/ドメスティック・パートナー/登録パートナー、名称もシステムも、導入のプロセスで詰めて行けば良い。要は、同性パートナーシップ―――男女の事実婚関係―――弱者同士の互助関係の「法的定義/法的保障」が、いずれにせよ、これからの日本社会に必要だという当然の話だ。
〔傾向3〕虐げられているLGBTは、民主主義の本質について積極的に語ろう/学ぼうとしない。
民主主義の本質は、小学校で教わる。主権在民。基本的人権の尊重。社会を作るのは、一人一人の市民だというシンプルな話である。
疑いなく、日本のLGBT環境を良くしようとするアクションは、日本社会そのものを改善しようとのムーヴメントと連動する。みんなで、日本を、もっと良くして行こう。ただ、それだけのことだ。
―――と、このようなことをブログで書いてしまうせいなのかも知れないが、驚いたことに、僕のことを活動家だと思っている人がいるらしい。僕自身は、どのように思われても構わないのだが、僕みたいなのが活動家だなどと、されてしまっては、本物の活動家の方たちに申し訳ない。
ゲイ酒場では、政治の話題が避けられるそうだが、一体どうしてなのだろう。政治が悪くなれば、若者たちが、また戦場に送られ、殺し合いを強いられるようなことになるだろう。ゲイ酒場で呑んでいる酒の税額を決めるのも政治だ。政治を抜きにして、僕らの生活は/人生は語れないのに、どうして政治の話題は避けられるのか、さっぱり判らない。僕は、政治の話が酒の肴になる人間だが、酒が不味くなる人が少なくないらしい。人それぞれだから、べつに構わないが、僕は、日常に政治的議論がなくてはならないと思うから、政治の話が酒の肴にならないなんて、不思議だなあと感じる。
LGBTコミュニティーで活躍している人たちの中には、コミュニティーを「業界」と称する方がお出でになる。業界と仰るからには、儲け金が動くことを強く意識しておられるのだろう。プロなのか、そうでないのかに固執したり、自己と他者の比較に心を注ぐ向きがある。誰が偉いとか、凄いとか、偉くないとか、凄くないとか。僕には、そういう興味がない。人間など、みんな「どんぐりの背比べ」だと思っているから。―――ただ、人間は劣等感と優越感のバランスの上に立つ動物だから、お互いに「おだて合って」行かないと、丸く収まらないことも確かだ。
何事も、自然体で臨むしかない。
間違いがあれば、お互いに正す。間違っていないと思えば、泰然と向きあっておれば良い。ただ、人それぞれだから、いろいろな考え方があることなど、重々承知の話ではなかっただろうか。当たらない批判をされることは悲しいが、誤解を解くエネルギーを考えると、ある程度は諦める覚悟も必要だろう。人は誰も、できるだけたくさんの人から好かれていたいと思う。ところが実際は、どうもそうはいかないらしい。いい子であり続けることなど、歳を経るごとに、どんどん難しくなるようだ。でも、それもまた悲しい。
何事も、自然体で臨むしかない。
ブログ日記の独り言。
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