♂ゲイ小説 Just the Way You Are 〔07/42〕
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作成日時 : 2008/06/09 10:09
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※※〔06/42〕より、つづき
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その頃――。
グリーン・ティー・クワイア・アンサンブルは、定期練習のまさに真っ最中だった。
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Komm, holder Lenz!
Des Himmels Gabe, komm!
Aus ihrem Todesschlaf
erwecke die Natur!
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優しい春よ おいで
天からの贈り物よ おいで
死の眠りから
大自然を 目覚めさせておくれ
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グリーン・ティー・クワイア・アンサンブルは、混声合唱団だったのだが、団員の総勢は五十名にも満たなかった。とは言っても、経験が豊かなアマチュアのメンバーが大半だったので、実力は充分だった。しかし、さすがに少人数とあって、ときとして演奏にパンチが足りないと感じられた場合には、セミプロに加勢して貰って公演に漕ぎ着けることもあった。
Es nahet sich der holde Lenz,
schon fühlen wir den linden Hauch,
bald lebet alles wieder auf.
のどかな春は もうすぐそこです
穏やかな息吹きが 感じられるからです
すぐに すべてがよみがえることでしょう
彼らはハイドンのオラトリオ“DIE JAHRESZEITEN――四季”の全曲演奏に取り組んでいた。この年の初めから、週に一度――木曜夜の定期練習に加え、強化合宿をすでに一回行っていた。当面の大きな目標は、十二月に予定されていたグリーン・ティー・クワイア・アンサンブルの定期公演で、申すまでもなく、この“四季”を上演することだった。本番まで、あと八ヶ月ほど残されていた。
「君たちはね……、大層、下手なんだよ……」と、指導者であった徳俵清音が演奏を止めた。彼は、もうじき、御歳七十になろうというキリスト教音楽界の重鎮で、自らはオルガニストだった。東京神学大学の講師を務めていた。戦後まもない頃、グリーン・ティー・クワイア・アンサンブルと、アマチュアオーケストラ・SOY合奏団(のちのSOYオーケストラ)を率いて、日比谷公会堂で演奏したヘンデル作曲の“メサイア”を皮切りに、以来三十四年間に亘って、毎年少なくとも一度は、地道な演奏活動を守っていた。演目は専ら、いわゆる宗教音楽ばかりで、古典派の大バッハを一番の得意としたが、レパートリーはロマン派・メンデルスゾーンや近代楽派への橋渡しをしたフォーレにまで及んだ。
「……新しい練習場になったからね、以前より音が良く聞こえるだけなんだよ。練習場を変えたのは、賢くなかったね……」
皮肉屋の徳俵は、わざとそう言ってからニヤリと笑い、団員一同を見渡した。
グリーン・ティー・クワイア・アンサンブルは、四月に入って、ちょうどこの週の練習から、ホームグラウンドを完成したて、開館したばかりの、真新しい新宿文化センターに引っ越したところだった。リハーサル室を借りての練習だったわけだが、ここは本格的な音響設計になっているから、以前に使っていた、例えば、神田の美土代公民館の中にある会議室などとは、比べものにならないほど、音の環境が良かった。
「……良く響くからと、勘違いしてはいけませんよ。君たちは、先週までと全く同じで、どうにも下手なんだ……」
毒舌は徳俵の愛情表現だと熟知していた団員たちは、何を言われてもクスクスと漏れ笑いをこぼしていた。彼らは、徳俵を尊敬していたのである。この頃の徳俵は、すっかりおじいちゃんになっていたから、もっと若いとき、明治学院や青山学院の宗教音楽科教授としてバリバリと指導していた時代と比べると、むかしを知っている人たちは口を揃えて、先生は人間が丸くなったと表現したものだ。明学に神学部、青学に文学部神学科があったころなどは、カミナリ徳俵と恐怖の対象だったそうだから、老いてからは、もともとの円やかな人格が滲み出るのを抑えられない正直無垢な人だと、敬意を表されていた。
「……春よ来いと歌っているのに、そんな酷い声じゃ御免だと、春のほうから逃げ出していくだろうね。いけませんよ、そんなことじゃ……」
徳俵の、いかにも軽めな説教を、
(清音先生は、いつも同じことばかりおっしゃるんだから……)
神妙な表情だけ装って聞いていた池星靖一は、テノールのパートリーダーを担当していた。
靖一は、合唱を高校生の頃から続けていた。男子校に通い、サッカー部で鍛えた傍ら、男声合唱のサークルにも在籍していた。もとより、歌うことが好きだった。小学生だった戦争中は、歌詞の中身よりも楽曲の勢いに絆されて流行軍歌を巧く歌った。父親が、空襲から守ろうとしたレコードの話を知って、クラシック音楽に興味を持ち、惹かれていった。何かの楽器をやりたかったのだが楽器は金が掛かったのと、サッカーの練習があったから、手っ取り早く歌唱を選択した。聖玉塾大学に在学中も、短期間だったが合唱部に在籍した。だが、さほど熱心ではなかったようだ。卒業し、社会人になってからは、仕事が多忙で満足に合唱を続けられない時期も経てきた。それでも、ことごと左様に断続的であったとは言え、高校以来、約三十年ものキャリアを積んでいた。聴覚と音感とに優れ、パートの旋律を会得するのが誰よりも早かったことから、徳俵の推挙でテノールパートのリーダーに抜擢されていた。
「……さて、文句ばかりでは練習にならんと言いたそうな顔をしておるようだから、アタマから通して、次へ進みますよ」
父親・池星栄五郎が社長として君臨・支配する会社――株式会社ホッセーに勤務し、次期社長に就任することが暗黙の決定事項となっていた靖一は、実のところ、赤坂の邸宅に帰るのが嫌だった。
(そう来なくては! 歌えや歌えです!)
こうしてグリーン・ティー・クワイア・アンサンブルの練習に加わっている時間が、自由気ままで心地良かったからだ。
会社においては、
『おい! 専務』だの、やれ専務だのと、いとも無造作に呼び付けられ、息子ということもあってか、仕事上の間違いを誰よりも非道く叱られることが多かった。家に帰れば、その憎らしい上司が再び目の前にあって、今度はプライヴェートなことで、がたがたと難癖を付けた。もっとも、これは靖一の側からだけの言い分だったかも知れない。父親・栄五郎には、彼なりの愛情も優しさからの苦言もあったのだろう。父親とて、鬼ではなかった筈である。息子が可愛かったからこそ、ああしろこうしろと煩く命令してきたのが本当のところだったろう。だが、靖一もそうと解っていたにせよ、やはり父親を憎く思った。
栄五郎が勝手に“決めてきた”結婚話を、むりやりに呑まされたのは、靖一が三十六歳のときだった。十年前のことだ。
鏡子とは、見合いを経て結婚したことになっていたが、実際は、見合いなど無かったも同然だった。靖一が三十歳になる前後から、栄五郎が口煩く、
『結婚だ、結婚。結婚しろ!』と、追い詰めるようになった。
独り息子だったので、否が応でもホッセーの身代を継いで池星家の次代当主にならなくてはいけないと、物心が付いた時分から教え込まれてきた。
しかし、靖一は、そういうものだと納得していたわけでは決してなかったのである。
Frohlocket ja nicht allzufrüh,
oft schleicht, in Nebel eingehüllt,
der Winter wohl zurück und streut
auf Blüt'und Keim sein starres Gift.
その歓びは まだ早い
ときとして 霧に包まれた冬は
きっとまた戻ってきて拡がる
花も蕾も 固くかじかんでしまうんだ
母親・淑子が生きていた頃は、何かに付け、靖一を庇ってくれていた。靖一は、最強の守り手であり、人生の最期の瞬間まで慈愛に満ちていた母親を深く愛していた。淑子を癌で亡くしたのは、結婚を決断する二年前のことだった。靖一は、母親という防波堤を失って、父親・栄五郎の独裁に屈した。
意に反して結婚した相手、鏡子とのあいだに、結婚して三年を経てからようやく授かったひとり娘・優美を、靖一は鏡子以上に愛していた。赤坂の家に帰って何よりの癒しは、優美の愛くるしい顔を眺めることだった。
Komm, holder Lenz!
Des Himmels Gabe, komm!
Auf uns're Fluren senke dich,
o komm, holder Lenz, o komm
und weile länger nicht.
優しい春よ おいで
天からの贈り物よ おいで
私たちの土地に 降りてきておくれ
さあ のどかな春よ おいで
立ち止まっていないで さあ早く
「盛鷹くん。……次のレティタティーヴォを歌ってくれたまえ。春が来たことを歌う場面だね……」と、徳俵がグリーン・ティー・クワイア・アンサンブルの団長へ指示を下した。
ベースパートのリーダーでもあった盛鷹は、靖一より二歳若いだけと年齢も近く、最も心を許した親友だった。彼の歌唱は玄人裸足の力量を持ち、良く響くバリトン声は圧巻だった。
Vom Widder strahlet jetzt
die helle Sonn' auf uns herab.
Nun weichen Frost und Dampf
und schweben laue Dünst' umher;
der Erde Busen ist gelöst;
erheitert ist die Luft.
いま おひつじ座から放射される
輝く太陽の光は 私たちのもとへ
そして 霜と霧は消え去り
暖かなもやが 周りに満ちています
大地は その胸襟を開き
大気を 心地よく迎え入れます
盛鷹が、正確にソロ部分を歌い終えると、
「君は、かなり筋がいいんだがねえ……。どうして歌の道へ進まない? 何故だね? 私が紹介状を書くと言うておるのに……」
徳俵は、もったいなさげな表情になり、指揮棒の胴で自分の照る照る禿頭を叩いていた。
※※〔08/42〕へつづく
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