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<差別>あるいは<偏見>といった言葉で、つい簡単にくくりたくなってしまうが、実際のところ、日本では、そうした言葉がふさわしいのかどうか、微妙な感じもする。 たとえばイランでは、累計”数千人”という”規模”で同性愛者が”処刑”されてきたと伝えられているなど、徹底した差別がある。差別などという”生やさしい”表現では済まないだろう。”虐殺”と言い換えても良さそうだ。まさに、同性愛者を根絶やしにしようとしている。 比べてしまえば、日本の同性愛者/LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)に対する差別・偏見は、炙り出されて殺されることなどない分、まだ”まし”なほうだと呑み込んで、事を荒立てずに静かにしておれば良いではないか―――と考える当事者が少なくない。目立った活動には及び腰になって、傍観者に徹しようとする。 同時に、同性愛者/LGBTではない多数の人たちは、当事者の気持ちが読めていないこともあり、いったい誰がどんな差別をしているのか―――と訝しげな表情を浮かべたりもする。そもそも、日常の場面で同性愛者に出くわすことなど滅多にない非同性愛者/非LGBTの人たちの感覚からすれば、身に覚えのない言い掛かりを付けられているような気分になるような人たちも、中にはお出でになるかも知れない。 それと、しばしば見られる反応に、 『え? 同性愛? ひとさまに迷惑を掛けないのなら、どうぞご勝手に!』 無関心に輪を掛け、<どうでもいい>感覚を露骨に示すケースがある。興味のない人たちに声を投じ、関心を喚起する作業は非常に難しい。また、往々にして同性愛者/LGBTに興味のない人たちに限って、ホモフォビックな(同性愛を忌み嫌う/嘲け笑う)心ない言動を、平気な顔をして宣うものなのだ。 仮に、彼らが同性愛に興味を抱くようになったとしても、主たる興味のポイントは、同性でどうやってセックスをするのかなど、ごく低俗な性的興味の域を出なかったり、異性愛者/ヘテロセクシュアルとの感覚的な違いにばかり目が向いて、あたかも動物園で珍しい生き物と初めて出会ったかのような好奇心だけが先走っている感がある。 1990年5月17日と言っても、さほど遠いむかしのことではない。この日に、世界保健機構(WHO)が国際障害疾病分類リストから<同性愛>の項目を削除すると決めた―――ということは、それより前は、同性愛が疾病として扱われていたことを示している。'90年の僕は29歳だった。あの頃までの僕が、場合によっては、同性愛と称する病気に罹っていたことになっていたのかと想うと、バカバカしいと感じる反面、そら恐ろしくもなる。 その5月17日を記念して、<国際反ホモフォビアの日>と言う。略称の<IDAHO>は、英語表記”International Day Against Homophobia”の頭文字を綴ったもので、”アイダホ”と読まれることから、日本では、『やっぱ愛ダホ!』をキャッチフレーズに、この5月17日、全国各地でイヴェントが開催される予定だ。 2008年5月17日(土) このイヴェントの起こりは、フランスの同性愛者人権活動家ルイ・ジョージ・タン(Louis-Georges Tin)氏によって、世界のいたるところに現在もなお蔓延っているホモフォビア=同性愛への嫌悪について、しっかり考えよう、見つめよう、差別反対の声を上げよう、偏見を消し去ろう―――と呼び掛けられ、定着したのだそうだ。世界50カ国以上で、何らかの行動が示されてきた。日本でも、ここ数年でIDAHOイヴェントがかなり根付いてきたように感じる。決して大きくもなく、派手なイヴェントでもないが。 日本では、いわゆる<ゲイリブ>が、当の同性愛者/LGBTからも敬遠されてきた風潮は、いまでも健在かと想う。もちろん、とても残念なことではあるが。 どうして、ゲイリブが敬遠されがちだったのかは、冒頭で述べたように、日本の同性愛者/LGBTを巡る環境が、中途半端に”ぬるい”からだろう。レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーが炙り出され、片っ端から処刑されるようなこともなく、むしろ黙っておとなしく隠れていさえすれば、安泰な同性愛者的/LGBT的生活が営めないでもない。一神教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教)ならではの<同性愛禁忌の規範>が、日本へは全く及んでいないため、息の根を止められるようなバッシングがない代わりに、”どうでもいい”、”SKN=そんなの関係ねえ”と、相手にもされていない。 「みんなして『勝手にしろ』と仰るのなら、ええ、勝手にさせていただきますわよ!」と、開き直ったゲイのオネエさまがたばかりが、やけに目立ってTV出演しているような有り様だ。 「べつに、なんにも困っていないもん」と、こともなく言い、せっかく静かにしていればテキトウにごまかして生きて行けるものを、やれ差別だの偏見だの、同性カップルへの法的保障だの、 「わざわざ、ガタガタ騒いでくれるなよ!」 口を尖らせて不満顔になっているのが、ゲイリブ敬遠派の同性愛者/LGBTだ。 彼ら敬遠派の意想を<内なるホモフォビア>だとは感じない。なぜなら、敬遠派はゲイリブを避けようとしているだけで、同性愛者/LGBTとしての人生を、むしろ謳歌することに長けているようにも見えるからだ。 敬遠派には、ゲイリブ派の行動が、取って付けたようにわざとらしく映るに違いない。火のないところに、わざわざ火を点けて、火事だ火事だと大騒ぎをしているかのように。 しかし、本当のところはそうでなく、ゲイリブ派は、日本でも声を上げ、きちんとやっておかなくてはならないことを、真剣にやろうとしているだけだ。 つまり、たとえ同性愛者/LGBTの誰かが、黙っておとなしく隠れていることなく、素のまま、ありのままの自分として生きようと決断しても、同じ人間として、非同性愛者/非LGBT(=異性愛者/ヘテロセクシュアル)たちの只中にあってさえ、臆することなく平気の平左で生きられるように、また、こと左様に生きやすい世の中にしたいと念じながら。 求めるところは単純で、要するに意想の転換である。 <国際反ホモフォビアの日=”International Day Against Homophobia”>。略称<IDAHO>は、5月17日―――。 意想転換の訴えは、同性愛者/LGBTを差別せず、また偏見を持たないで欲しいと、異性愛者/ヘテロセクシュアルの人たちだけに向けられているのはない―――。 素のまま、ありのままの自分をさらしても、臆することなく平気の平左で生きられるかどうかとの問いかけを、同性愛者/LGBTのそれぞれに向けて―――。 そして、何も困っていないのだから、事を荒立てるなと白けるゲイリブ敬遠派の当事者たちには、果たしてそれで良いのかとの問題提起を―――。 参院選に、レズビアンであることを公言した大阪府議前職が立候補するなど、一定の社会的注目度が高まった去年と比較すると、一転、停滞期に陥ってしまったかのような日本の同性愛者/LGBTムーヴメントだが、あらためて感触を確かめに、ひとつ、イヴェントを観察しに出掛けてみるのも、悪くないだろう。 クリックプリーズ
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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イベントの報告に期待。 |
th 2008/05/16 13:07 |
>thさん |
円山 2008/05/16 20:22 |
円山さんも指摘していますが、多くの人達にとってLGBTの存在はどこか別世界の事としてみられているという現実があります。 |
1st 2008/05/17 19:41 |
>1stさん |
円山 2008/05/18 19:35 |
↓↓さて、パートナー登録とカミングアウトですが、カミングアウトをしない、また法制度を使わないLGBTの生き方も、当然あって良いのです。誰もが、絶対にパートナー登録をしなくてはならないと”規定すること”が、LGBTの法的保障制度を整えることではないのです。個人的な理由、個々の考え方によって、パートナー登録を避けたいのなら、それはそれで良いという通念を、しっかり持ちたい/持つべきだと思います。制度が生き方を縛るのではなく、生き方があって、そして制度もあって―――さあ、どうしますか、ご自由にと、そのような社会がよろしいのではないでしょうか。僕は、そう念じています(^o^) |
円山 2008/05/18 19:36 |
1990年・・。ほんと、つい最近ですね。私はバイセクシャルで、同時に精神病者でもありますが、どう考えても自分のセクシャリティーは精神病とは違うと思います。当然この感覚は正しいわけですが、それにしてもセクシャリティーに関することは世界的に遅れているように思えます。それと、やはり差別や偏見は一部の支配層が意図的に作っているのだな、と思いました。法的に処刑するということから、メディア媒体での偏った報道。テレビでゲイの人たちを見せ物扱いするのもその一例でしょうね。 |
アッキー 2008/05/19 22:28 |
>アッキーさん |
円山 2008/05/19 23:19 |
ゲイリブの人って、どうして特殊なゲイリブ同士でしか通用しないゲイリブ用語を使うのかしら? 一般人も、同性愛者も理解できない言葉で語っても、いつまでたっても受け入れられることは永遠に不可能だわ。LGBTってなんなのか意味不明だしw |
だってさ 2008/08/01 01:47 |
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