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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ小説】 幽霊香盤表 第13幕 (全17幕)

<<   作成日時 : 2008/05/03 07:00   >>

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  ◆◆幽霊香盤表<第12幕>からの、つづき◆◆

 うっすらと青い満月は、頭の上のほうへと移動し掛かっていた。さきほど、稽古場の窓を通して眺めたときと比べると、満月は、ひとまわりぐらい小さく感じられていた。日影ビルを飛び出した雄介は、一気に、和田堀公園を突っ切って抜けてしまおうと思っていたが、腹が空いていたから、大して進まないうちに走るのが嫌になった。その上、八月の湿り漬け込まれた重ったるい空気が、身体じゅうに纏わり付いてきて、数分も経たないうちに、体重が五割り増しになったように感じた。汗が、猛然と噴き出してしまう。もはや、歩くどころか立ち止まって、ダラダラと流れてくる汗をハンディータオルで、叩くようにして拭った。
 樹木が生い茂る。ところどころ、その木々に混じって直立する高いポールの上から、煌々と――刑務所のサーチライトを想像させる夜間灯が焚かれ、一帯は映画の撮影ができてしまいそうなほど明るい。遊歩道も、明るい土色が反射して光る。蛙の合唱と、夜の虫たちの音色が、じっとりと粘り気を含んで静止した真夏の大気と良く馴染んでいる。やはり、昼間のうちに思いを果たせなかったのか、こうして夜になっても、ジージーと未練がましく歌っている蝉たちが少なくない。
 パカッとケータイを開いて時刻を見た。もうそろそろ、九時になろうとしている。
 行きずりのセックス相手を探し、また場合によっては、この場で即時に、屋外の性的交合へと雪崩れ込む、――そのようなハッテン場として、この公園を利用するゲイたちを散見できることもある。だが、幾ら何でも、まだ性宴の時間には早過ぎるようだ。
 それもそうである。ここを、家路の近道として通り抜けて行こうという勤労者たちもこの時間帯には多いようで、急ぎ足で歩むスーツ姿ら数人が、黙々と過ぎ去って行った。
 彼らは、妖しげな眼差しで肉体的交歓を誘い掛ける人種とは、到底、想えない男たちばかりだった。もちろん、当の雄介には初めから、そのような遊びに興じる意思が、あろうわけがない。
 雄介は、ここ和田堀公園の東側にある、大きな池のほとりに佇んでいた。池の面を見るでもなく、ぼんやりと視界に入れていた。剥き出しになっている二本の素足に、また両の腕に、容赦なく食欲のあり余った蚊の一大集団が襲い掛かっていた。それでも、雄介は、パチンパチンと素っ気なく叩く程度で、されるがままに甘んじていた。
 自分の短気が損気だったとつくづく後悔もするのだが、それにしても、財部の言葉は汚かったと思った。カミングアウトまで決行すれば、自分が如何に榊守家の跡取りなど、なりたくないのか理解して貰えると踏んだのだ。――と言うよりも、あのものずきな幽霊にすっかり操られ、つい勢い付き、あそこまで本当のことを告げてしまった。結果、あのヒステリーオヤジの魂には、ゲイの心情を察するだけの寛容さも大らかさも無かったと覚った。
(そうだ。藤六オジさんってー、鰻屋の店にしたってオバちゃんに任せっ切りにしたまんまでさ、お芝居のほうだって、何もかも、諏訪さんにおんぶと抱っこをさせてさ、そんで、やっとどうにかなってたみたいだったじゃんか)と、そう気付くと、理不尽さで、再びはらわたが煮え返りそうになった。――と同時に、雄介は、諏訪に申し訳けないことをしたと思った。
 諏訪に、かつて少年院へ収容されていた――あんな凄まじいティーン時代があったとは、なまじヤンキーの境遇にある雄介には、かえって衝撃的だ。それと、いま見事に俳優として成功を果たしている諏訪宙太郎の現状を考えると、嫉妬するほど心強かった。
 雄介は、諏訪の少年時代を演じることで、このどうしようもない自分のありさまを、とにかく、如何なる形にでも構わないから変えてしまう、そのような切っ掛けにできたら良いと、正直なところ、そう目論んでいた。意欲が湧いていた。珍しいことだった。
 しかし、財部藤六の怒鳴り声は、ただただ邪気に満ちていた。これまで滅多に何かへ打ち込むことがなかった雄介の、せっかく高まった意欲を、木っ端微塵に粉砕する邪気だった。
(台詞だって、必死になって覚えてるし、覚えたさ……。なのによ……、ちくしょう……)
 榊守の家からも、信頼できなくなった両親の存在からも、いっとき遠く離れていることで、辛うじて保つことができた意欲だったと言うのに、財部は、相談もしないで雄介の両親へ招待状を送っていたのだ。自尊心が傷付いた。
「はーっ! いたいた! ここにいたか……」
 突然、四時の方角から健二の声が響いた。
「……ひゃーっ! ノドが渇いたっちょ! なーなー、何か飲むもの持ってねえっかい? ……」拍子抜けのする、変に明るい声である。
 雄介は、このまま独りでいても、どんどん気が滅入るばかりだと弱っていたところだった。いずれにしても、諏訪には謝るつもりでいたのだが、何事にも取っ掛かりが必要というものだ。健二が探しに来てくれたから、きっともう大丈夫だと直感した。
 健二は、堅太りしたふくらはぎを、縦方向にドッシリと二本、並べて晒したような短パン姿であった。自分の体格よりさらにたっぷりとしたTシャツを、いつもと同じ感じで、ヒラヒラと気流にたなびかせるかのように、走るでもなく歩くでもない宙を浮いて進むような速足で接近してくる。
「……自動販売機とか、そこいらに無かったっけ? いや、どうもこれがまた、蒸し暑いねえ、昼夜、関係なくさあ」
「うん……」
「どうしましたかい? 急に、冴えなくなっちまって?」
 汗びっしょりの健二が池のほとりに到達しただけで、雄介は、
「聞いての通りだよ。財部のオジさんが悪いんだ」
 途端に気温が一〜二度上昇したような心持ちになった。
「あー。そうだよねえ。あの財部というお方はどうも、マゾヒズム的快感ってえヤツがお好きだと見えてね、稽古を厳しい雰囲気にすりゃ、それだけでデキが良くなると勘違いしてえるんだ。むかしの古い考えかただねえ」
 雄介は、傍らに置いてあった緑茶のペットボトルを取って振って見せると、
「ひとくちぐらいは飲めるよ」口元をちょっとばかり捻り、ほのかな笑顔を滲ませながら手渡した。
「ありがてえ! ……」緑茶を奪い取ってキャップを投げ捨てたときには、中身を飲み干していた。
「……ずいぶん探したんっすよ。……ったく、面倒を掛けるお人だねえ。お陰でノドがカラカラになった」
「ごめん……」反応良く、雄介は率直に謝罪した。
「おっと、痒い痒い。あらら、ひでえな。こんなにでっかく、蚊に喰われちまってらあ……。あーあ。……まあ、いいや。ふうーっ……」ふくよかに充実した腿のあちこちに指先の爪を赴かせ、ボリボリと掻き巡らせている健二は、そうしながらも、しばし、まだ息の上がった呼吸を整えている様子だったが、
「でもまあー、ねえ……。あの、幽霊さんには、ナンでござんすよね。参ったもんですねえ……」敢えて改まった風な口調になって、雄介の表情を観察していた。
「ああして、ざっくばらんにされちゃっまった日にゃあ、ウーもオーも出ねえってなもんだ」
「え? 何それ? “ウーモオー”って?」
「へっへ。あんなにズバリと言われちゃったら、反論もできなければ、何も隠し立てさえできないってことっすよ!」
「あんなにズバリとって?」
「やだなあ、ほら……。言ってたでしょ、幽霊さんがさあ」
「何て? ……」
 雄介は、健二が何を言いたいのか、本当にチンプンカンプンで、
「……ごめん、オレ……、良く聞いてなかったんだ、興奮してて、頭に血が昇ってたからさ。自分が喋くるのが精一杯で。オジさんに解って貰いたくてさ……」幽霊が、どんなことを話していたのか、大した注意を払っていなかったと答えた。
「その、ほら、ね! 幽霊さんは、たしか――きみたちと同じだよー――っとか言っちゃってさ……。ねえ? そう言ってたじゃないさ? 聞えなかった?」
「きみたちと同じだって? んーん。知らない。聞いてなかったかもしんない」
「うっ? そうなの?」健二は、言いたいことがなかなか伝わらないのが、どうにももどかしく感じていた。
「何が同じなんだろ?」
「じゃさ。幽霊さんが、どうして死んじまったのかってえ話は覚えていなさる?」
「そうなんだ? いつ、そんな話してたんだろ?」
「やはり、さっきでござんすよ。さっきの稽古で、ほら、雄介くんが。藪から棒に、カミ……」一瞬、言うのが憚られる言葉だった。
「カミ……ング、アウト……っしょ?」
「そ、そう……。はは……、いっきなしカミングアウトしちゃいやしたもんなあ、雄介くん。そらあ、おったまげたにゃ、おったまげたけどよ、いっぽうで、ああして本物の幽霊がぺらぺら口をきいている最中でもあったし……」
「ああ……。それどこじゃねー……みたいな?」
「輪を掛けてたまげたのは、そんときに、幽霊さんがね、いつどこで本人が……、その……、死になさったのか教えてくれやしてね」
「そうだったんだ! ……全然、無理無理、さっきは。オレ、マジでテンパってたから。幽霊の喋ってたことなんて、途中から、耳に入って来なくなった。必死だったから。オレ、初めてだったんだ。自分がゲイだ――なんて、誰かにバラしたことって……」
 健二にとっても、誰かがカミングアウトするところを目の当たりにしたのは、雄介が初めてだった。もっとも、幽霊が自分の素性を告白したのも、ほぼ同時だったのだが。
「幽霊さんってねえ。一年前だかに、この和田堀公園のどこかで、間違って、うっかり死になすったんだって。なんでもね、ほら、その……“ハッテンの最中”に、宜しくねえクスリをやり過ぎちまって。……アシッドとコークなんぞを」
「アシッドとコーク?」
「むかしの……、LSDとコカインのことで……」
「この公園で、ハッテン中に、そんなだっせえクスリで死んじゃったって? マジで?」
「そう言ってたじゃ、ありやせんかー。そいでね、ほら、幽霊さんが宣いなさることにゃ、きみたちと同じアレだよって」
 健二は、ここで話に詰まってしまった。やはり、――意識してしまうからなのだ。雄介という、カミングアウトしたゲイを、すぐ手の届くほど目の前にしているからこそ。
 かたや雄介は、健二の口からすんなりと、――“ハッテンの最中に”などというゲイならではの用語が気安く出てきた時点で、
(おやおや……)と勘付いたのだが、
「きみたちと同じアレ? ……何が同じだって?」
 健二自身の言葉で――、その“カタカナふた文字”をビシっと聞いておきたいと、このとき思ったのである。
 ところが、健二は、肝心のところで、上手く切り出すことができなかった。雄介が、ついさっき、明快にカミングアウトしたばかりだというのに。軽く太っちょ健二が隠し抱いてきたゲイとしての心が、元・高校球児・雄介を素敵だと認識すればこそ、躊躇いの強迫観念が頭をもたげてしまう。こんなにみっともない自分が、雄介のように姿形の良い男から好まれるわけがない――との。
「…………」健二が黙り込んでしまうと、公園――北側の遊歩道から、十人だかそこいらの若者集団が、
“マジで、こんな方向でいいわけ?”
“ちげーでしょ。こっちじゃなくない”
“……ってか、それじゃ、もー、やべーでしょ!”
“遅刻っしょ? 超・マズイっしょ!”
 夜の公園だと言うのに、わいわいと賑やかに近付いてくる声が聞えてきた。
 健二の脳裏には、休憩前の稽古で、幽霊が健二に告げたことが蘇っていた。
({……いいかい。ボクのことが見える人っていうのはね、霊能者以外は――ゲイだけさ。ボクが、ゲイの人にしか見せていないから……})
 雄介は、後ろを振り返り、
(あら?)不思議そうな顔付きになって小首を傾げている。
(……似てるなあ……?)若者の集団に、妙に気を取られていたのだ。
「えっとな……、雄介くん」
「はー?」
「あの、真っ白な幽霊さんは、こうも言ったんでえ。――ボクが見えてえる人ってえのは、霊能者以外はゲイだけだよって。ゲイの人にしか見せてねえから――って」
「そ……、そーか! やっぱりなー! ……」雄介の声が、
「……健二さんも、そうじゃねっかなってさーっ!」
 一段階、明るくなったところで――、
「おおーっ! いたよ、いたいたー! 雄介じゃん! 久しぶりじゃん! こっち方向で良かったんだー、――“げきだん・うなぎのぼりのけいこば”ってー」
 いきなりパワー炸裂の元気ヴォイスを浴びた。
“ああっ! 雄介だ、雄介だあー!”
“元気そうじゃーん!”
“……ってか、なっつかしーじゃーん!”
 近付いてきた若者の一連隊が、紛れもなく雄介の顔見知りだったのである。
「あ? なんで……。勇気とか――カズオまで……。どうして、こんなとこに……? わっけわかんねえ……」雄介が、驚いて顔面神経をピクピクさせているのに、
「へっへっへー」と、勇気と呼ばれた若者以下――一連隊は清ましたものなのだ。
「べっつにさー、雄介をビビらせようって予定じゃなかったんだけどよ……」
 その十余名の若者は全員、いわゆるB系の出で立ちをしている。
 ブラック系――すなわち、ニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ニューオーリンズなど、ビッグ・アフロ・シティーのロウワー・ダウン・タウン辺りで生活する――比較的低所得のアフリカ系アメリカ人たちが普段着として着用している風情の衣服である。早い話、彼ら貧しいアフロ・アメリカンの親は、子どもたちが成長するのに合わせて次々と新しい服を買い与える経済的余裕がなかったがために、日頃から、体格よりもずっと大きめで、ダブダブにして余りあるジーンズやTシャツ、タンクトップ、フリース・ウエア――等々を着させていた。貧困ゆえの、やむを得ざる知恵としての生活習慣を、無遠慮に模倣しただけの空虚なファッションなのである。
「……成り行きでな……、こうなったんだ」
 健二が、
「こちら、お友達……で?」恐る恐る尋ねると、
「まあ……、知り合い……」雄介が、しどろもどろになっている。
「知り合いとか言ってっぜ。さみしくねー、そーいうのって」ボス格の勇気という少年が、ポケットに両手を突っ込んで仁王立ちになった。
 上体を反らし半身へ重心を移動させて、つま先で常時リズムを刻んでいる。そのリズムに反応して、腰のベルトからポケットの中に仕舞われた財布か何かにまで連なっている数種の鎖が、チャラチャラと金属音を鳴らし続ける。ボクシングで言うなら、ライトヘヴィー級と称されるべき体格だろうか。事実、文句なしに鍛え込まれており、いかにも喧嘩に強そうな風体だ。やはり、頭がお決まりの丸刈りのうえ、後頭部や側頭部に、けったいな直線状の剃り込みを入れているのが、喧嘩を売られた相手には視覚的脅威となる。我輩としては、なるたけ関わりを避けたい種類の若者に見える。
“知り合いかよー”
“……っだよー”
“ダチじゃねえの、ダチじゃ?”
“お前のために来てやってんじゃねーかよ”
 少々、柄の良くない不満声が唱和した。
 圧力に押されて、雄介は、
「あ……、だからその……、学校の友達だ」か細く答えた。
「ひでえなー。何か、そういう軽い言いかたー。……で、このポッチャリくんは、だーれ?」勇気という少年は、気さくを通り越して、とことん馴れ馴れしいのだが、
「劇団の役者さん……、健二さんっていう人……」長期に亘って登校拒否を続けていた雄介は、手前勝手に音沙汰無しを決め込んでいたので、こうして図らずも級友と再会したと言うのに、何となく気まずい思いをしてしまっているわけである。
「ヘイッ! 高井健二と申しやして!」
「そうなの? 劇団の人? じゃ、ヨロシクッ! オレっ、雄介が逃げ出した高校、――天衛学院の同級生で、名前は勇気。こいつらはダチ。……みんな、ダンシング・クラブのメンバーなんだ」
“ちゃーっす!”
“ひゃっほー!”
“おばんでーっす”
「ほほう? ダンシング・クラブでござんすか? 雄介くんの高校の? それがまた、どういうわけで、こちらへ?」
「だって、ビビるっしょ? 大スター・諏訪宙太郎が、じきじきに学校へ頼みに来たらしいんだぜ。オレっらのことを、どっかで調べたみてえでさ。天衛・ダンシング・クラブの活躍をよー……」
 勇気少年は、雄介と健二へ、交互に二度ずつ視線を送って反応を窺った。健二は、
「ほうーっ」と、盛んに納得しながら首を縦に揺すっているが、雄介は目をパッチリ、口をパックリ、それぞれ開いて絶句している。
「……来週だってな? 本番がさ? ……だろ? ……『急な話ですみませんけど、どうしても出演して下さい』……ってさー、ナントナント、あの諏訪宙太郎が校長に会って頭を下げてったんだってよっ! ハッハーッ。すげーだろ? だからっ……、今夜は、その打ち合わせに来たってわけよ」
 健二が、迫力に押され、
「はあーっ! 雄介くんのクラスメイトが、芝居に協力して下さるんで? そうなんでござんすか!」無条件に感心している脇で、
「ど、……どの場面で、……どうやって出るって?」雄介は、全く予想だにしていなかった――諏訪の密かな動きと采配とを知って、ただ唖然とするのみだった。

       ***

 同じ頃。――しかも、同じ和田堀公園の、雄介たちがいる池のほとりから、センターの丘を挟んで真対照の位置にある小さな釣り堀の脇っちょ、――その待合い用のベンチに、
「泊めさせてもらえんのだったら、いまここで、ちょっとだけ触らせてくれんかね? なあ、いいだろうが、……陽子」欲情した財部と、
「イヤよう。アタシ、もうお腹が空いて空いて、しょうがないのよう。鰻の晩ご飯、奢ってくれるって約束したじゃないのよう」飢餓状態の松坂がいて、
「九時を回ってるんだろ? どうせもう、うちの店は終いだわな。今夜は鰻は無理なんだがね。諦めて、晩飯は他のものにしようや。……な? 陽子のマンションに泊めてくれるなら、一緒に何か作ろう。……どうだ? 一緒に作って、一緒に食べよう」
 財部が、異常にしつこく迫っているところだ。この夜は、満月だから、多分にその影響を受けて発奮しているものと想われる状況なのである。
「だーめ。言ったでしょう? 明日は、午前中から、ほら、時代劇の衣裳稽古があるのよう。頭だって支度しなきゃならないし、どのみち今夜はさ、ねっ……、何にもできないんだからっ、セックスも……」玉葱のように結わかれた黒髪に手を当て、財部に乱されないよう警戒している。
 財部は、よだれを垂らしそうに力なく口を開け、
「分かったがね。お前のとこには泊まらんから、な……、その代わり、いまここで、ちょっとだけ、陽子のアソコに触らせてくれんかね? 臭いを嗅ぐだけでもいいんだわね」スカート隙間から、むりやり松坂の陰部を目掛けて手を突っ込むのだが、
「イ・ヤ・ダー。何回言ったら分かるの、ねえ? あ! スゴイたくさん蚊が来た。ほら、来た来た。蚊に喰われちゃうから、そんなにスカートを捲ろうとしないでったら。ああ、痒いわー。お願い、やめて。イイ子だから、聞き分け良くなさい! ……」松坂の徹底した防衛に阻まれて、ほとんど前進できない。
 彼女は、座って足を組んでいるのだが、毎日欠かさない200回のヒンズースクワットで鍛えた腿の筋肉力を以て、堅牢な砦が確実に生殖器周辺をガードしているのである。
「……ねえ、どこかでお食事しませんこと? 早く食べて、今夜はさっさと帰りたいわー。藤六ちゃんも、今夜は奥さんのところへちゃんと帰って、鰻で精力を付けて、優しくして頂きなさいって。土用の丑なんでしょ、今日は? 鰻屋さんにとって、大切な一日なのよね?」
 テクニックなのだろう。松坂は、わざと女房の存在を思い出させて、発情を沈静化させようというのである。
「土用の丑? そんなん、今日はもう終わったがね……」思い通りにことが運ばないので、財部は、にわかに不機嫌になり始めた。
「……何だ! どいつもこいつも。みんな、おれの言うことを聞かんで! 諏訪くんは、雄介を降板させないと言い張りおるし、何って言ったっけ? どこのダンシング・チームだったか?」
「そうだわよー。こともあろうにダンスなのよー。雄介くんの高校の――天衛・ダンシング・クラブとか言ってたわー……」初めは、軽く呆れ返った口調だった松坂は、
「……あと一週間しかないのに、舞台のラストでヒップホップダンスなんて入れられるのかしらねー? アタシもう、いずれにしても、自分の出番を演るだけに徹するわねー。冗談じゃないわよっ! あとの芝居が、どんなにメチャクチャになっても、アタシには関係ありませんからっ! オ・マ・エ・が・ヤ・レ!」次第に激昂して、最後は低くてドス黒い発声で、恫喝のようになった。
「はああっ! もう、おれはストレスで押し潰されそうだー。助けてくれっ! ……陽子。おれを慰めてくれ、抱いてくれー!」
「いやよっ! くどいわっ! イイカゲンにしてっ!」
「わああっ! おれを見捨てないでくれー。……陽子、ようこ、ヨオコーーー!」
 見苦しい光景だった。もうすぐ還暦なのに、六十を過ぎて見える貧相な白髪の小男が、年下の中年女に悪戯させて欲しがって、どんなに言い寄っても盛っても、頑なに拒まれ続けているの図だ。おまけに、泣き真似のような弱言を重ねている。
 すると、突如、釣り堀の向こう側の真っ暗な茂みから、
「まあっ! な・さ・け・な・い!」悲痛な非難とも、嘲りの罵倒とも聞える、力強い女の叫び声が上がった。
「あ……」松坂が、覆い被さろうとする財部を突き飛ばし、慌てて居ずまいを正した。
 ベンチ周りが暗がりだったのと、財部も松坂も、演劇関係者ならではの感情の入れようだったせいもあったのか、まるで気付いていなかった。とくに財部は、松坂の陰部に乳首に、とにかく触れたくて仕方なく、手練を駆使して迫っていた都合上、背後の様子に全く注意が向けられていなかった。
 叫び声の主は、堂々とした歩調で接近してくる。
「ちょいと、そこの女! どこから飛んで来た夜鷹だか知らないけれど、その汚い手で、うちの人の身体に触るのをよしとくれでないかい! ……そうそう、案外素直に人の言うことを聞くじゃないかい。……さあ、うちの人から離れたら、そのまんま、どっかへお行き。行っちまいなよってんだ。へっ。この泥棒猫!」
 そこまで言われて、松坂は財部をうっちゃったまま、立ち上がらないわけにはいかない。ボウッと突っ立っているのも間が持たないし、第一、決まりが悪いから、長居は無用の構えになった。
「お、奥さんで……らっしゃいましたわね。どうも、こんばんは……。じゃ、アタシはこれで……。代表、お疲れさま……。お休みなさーい!」関わる事なかれで、愛人・松坂はサッサと逃げ出して、この場をあとにするのである。
 ドッキリ・カットインした財部の女房は、そのむかしモンペと呼ばれていた労働服を連想させるような、藍色をしていて動きやすそうな女性用スラックスに、白いエプロン姿――。頭には、手拭いを巻いた状態で、半ば、店の片付け仕事を放り出してのご登場であった。足元は、サンダル履きである。新高円寺から――ここ和田堀公園まで、徒歩でやってきたようにしか見えない。
「お前さん。ねえ、あなた……」と、声を掛けても、財部のほうは頭を抱えベンチへ突っ伏して、いっこうに動こうとしないから、
「ちょいとちょいと、アンタ! そこで顔を隠してバックレようったって、そのケツっぺたが隠れてないんだよっ!」正統・新演派女優も裸足で逃げ出しそうなほど、スカッと通りピンと張った、――それでいて、やや古典的な匂いを放ってしまいながらも、拍子と抑揚の巧い声を出して――、
「今日は、二回目の土用の丑だったわよね、この夏のさ。きっと、忙しくなるだろうから、芝居の当日が近くって、あれこれ大変だろうけれども、そっちのほうは諏訪さんにお任せをして、あんたには――本業の鰻屋のほうへ来て欲しい、どうか、お願いだから手伝っておくれと、何度も何度も、あたしは言いましたよねえ。あんたも、ああ分かった、それは忙しくなるだろうから、よしよし、おれは必ず店に顔をだすからと、あたしと約束をしていたというのに、何のことはない。あなたを信用した、このあたしが馬鹿だったんだ。昨日だって一昨日だって、その前からだって、仕込みがあるから、あたしもダン吉さんも、朝の六時・七時から店に出てさ。夜だって、できる限り準備をしておきましょうよ――女将さんって、そうダン吉さんが言うもんだから、あの人だって所帯があって、家族のこともいろいろあるだろうにと、そう気を遣ったら、いえいえ女将さん、そんなことは構いません。これは、あっしの本職でございますからと、終電近くになっても、いっこうに帰ろうとしない。電車が無くなるよと訊ねたら、いえいえ女将さん、あっしはバイクで通っておりますから、いつ何時だって、好きなときに帰れますから、どうぞ、女将さんのほうこそ、お体に障るといけませんから、適当なところでお上がりになって下さいましとさ、とにかく、ダン吉さんという人は、あんたが何もしてくれない分を、文句の一つ言わないで、黙々と頑張ってやってくれているんだよ! それが何だい! あんたは、芝居の稽古だー稽古だーと言っておきながら、結局さっきのザマじゃないかね。女に擦り寄って、ああ抱いてくれだの、おマンチに触らせろだのって、ああ、あたしは、本当に情けないよ。あの女はどこかの商売女かい? それとも売れない女優で、あんたがあの女と寝ることと引き替えに、あの女をどこかの芝居小屋にでも売り飛ばそうという腹なんだろうかい。ああ、酷いねえ。鰻屋が忙しくって忙しくって、あたしが、ついつい稽古場に出向くことが少なくなっちまったら、こういうことだったのかい。……もう、あたしは御免だよ。もう、本当に精一杯だよ。イッパイイッパイ。やる気が今度こそ失せました! ええ、ダン吉さんとあたしと、両方とも、お暇を頂戴いたします。あとは、あの鰻屋を、あなたがどうぞお独りで、切り盛りなさって下さいまし。……え? ダン吉さんは大丈夫かって? えーえー、どうぞご心配なく。ダン吉さんは一人前の板前さんですから。あたしが方々へ口を利いて、ちゃあんとあとの仕事の口は手配致しますから。それからね、あたしはもう、独りで自由に生きて行きます。あんたに仕えるのなんて、金輪際御免ですから。離婚して頂きます。慰謝料も、キッチリと請求させて貰いますから。さあ、これから先、大変ですわねえ。鰻屋と、劇団と、どちらをどう立て直して行かれますのかしらね。見ものですこと。せいぜい、高みの見物と洒落込むつもりでござんすから……」
 ――と、これまでに、溜まりに溜まった憤懣の実弾を、速射砲を連ねて一斉に掃射させたのだ。
「……頑張って……おくんさいましね」仕舞いに小粋な“しない”を付けて、
「ホッホッホ」と、大時代的高笑いを演じて聞かせた。
 まさしく、完璧な芝居だったのである。
 このような経緯があって、以後、財部藤六が大っぴらに松坂との愛人関係を晒すことはできなくなった。もとより、甲斐性も社会性もない財部が、女房との離婚に踏み切れる筈もなく、劇団鰻登の存続を大事に考え、自らは「とうろくや」に専念すると女房に誓うのだった。
 従って、劇団のほうは、諏訪の力にすがるしかない――ということにならざるを得なかった。
 我輩が想うに、否――、どう考えても、初めからそれが最良の判断だったのだが。

  ◆幽霊香盤表<第14幕>へ、つづく◆

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