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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ小説】 幽霊香盤表 第7幕 (全17幕)

<<   作成日時 : 2008/04/08 01:03   >>

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  ◆◆幽霊香盤表<第6幕>からの、つづき◆◆

 八月に入ると、ようやくポツリポツリと気まぐれな台風が日本列島へ近付いてくるようになった。近付けば近付いたなりに大雨にもなったから、夢彩思州一帯の大渇水は、どうにか最悪の段階に達することなく、このまま解決へ向かうことになりそうだ。
 新高円寺の「とうろくや」を切り盛りしている財部の女房は、水道が、もともとそうだったように不自由なく安定的に供給され始めるや、これでどうにか商売のほうも安心できると喜んでいた。夏場は、鰻屋の書き入れ時で、とくにこの夏は、土用の丑がもう一日控えているとか。
 この、前の日だったか、店に寄ったときに諏訪は、財部藤六ならぬ宿六の“働き者の女房”からそう聞かされていた。
 ピカピカピッと光ってから、雷がドドドンゴゴゴーッと轟いて、昼間だというのに夕方のように暗い。台風の本体はかなり遠いのだが、影響を受けているのだ。地球規模の異常な気象が運んできたオホーツク海高気圧の乾いた冷たい大気が上空に居座っていて、そこへ、台風がもたらす南国の暖気が混ざり込んでいる。下痢止め薬と便秘薬を同時に飲んでしまった腸内のようなもので、東京を覆う薄い空気層が、上を下へ、処しようのない大騒ぎに陥っている。ザーザーザーと、どう抗うこともできそうにない超・大雨が降り続けて止まない。雨が降らないなら徹底して降らない、降るならとことん降る。ほどというものを知らない両極端で、融通の利かない阿呆な天候である。
 このような荒天では、この我輩とて、どこへ行きたくもないものだ。ところが上手いことに、たまたま、この日は稽古が丸一日の休みに充てられており、他に外出の用向きもなかった諏訪は、六本木九丁目にある自宅マンションにいた。独身生活なので、常と同様、いまも独りである。丸々の休みは何日振りになるのだろうか。とにかく身体も頭脳も、あちこちが疲れ切っていた。
 湿気は、皮膚にもカビが生えそうなほどに酷いので、エアコンは除湿モードの――強。黒いボクサーパンツ一丁の姿になり、セイウチのような体躯をベッドの上へドッカリと投げ出し、大の字の形で仰向けになっていた。意外なことに、このとき、諏訪の腹部の皮下脂肪は、左右へ、さほど垂れ下がっていない。へその辺りでポッコリと盛り上がっているわけだが、これは皮下よりも、むしろ体内に脂肪が蓄積してしまっていることの、深刻なる証しなのだ。
 すっかり寛いでいるのかと思いきや、そうではない。諏訪は、ここまで口立てにした台本を片手に、仰向けのままでページを繰っている。横っちょに拡げた香盤表へ、巨体を捻って目を落とす。初日まであと二週間とちょい――なのである。芝居作りの進捗は、まあまあなところだった。筋も、一通りに口立てが纏まりそうだと見込みが付いてきて、ある程度、通し稽古で繋がるまでになった。
 雄介をはじめとする劇団鰻登の新顔さんたちは他に二名いて、――健二というフリーター・20歳と、――前畑という29歳・サラリーマン上がりなのだが、以上三人とも、素人なりに使ってしまえば良いことで、演出担当として頭を抱えるようなことはない。彼らにとって難度が高いようなら、居残りでもさせ、小返しを繰り返して慣れ切るまで稽古を積めば良い。それと、内田や松坂といったベテラン勢がガッチリと脇を固めているから、その点はどうにでもなると安心しているのだ。
 その代わり、とにかく手に負えないのが、稽古場へ勝手気ままに出入りしている――あの幽霊だった。幽霊は、稽古が進むにつれ、増して馴れ馴れしくなっていた。諏訪が弱ってしまうのは、幽霊が決しておどろおどろしくないことで、何回も現われてくるうちに、少々愛嬌のある野良犬が、懐いて、しょっちゅう遊びに来ているかのように、気安く感じられてしまっていた。おい俺だと言って幽霊が出現し、何だまたお前かと諏訪が応えてしまう、そのようなありさまになっていたのだ。
 幽霊のお節介が、諏訪自身にとっては“ありがた迷惑”に近く、ときに鬱陶しくさえも感じられたのに対し、雄介のほうは素直に、幽霊が存在することやらその関与やらを面白がっており、彼が言うには、稽古の最中に表情や動作など、幽霊が、なかなかツボを押さえたアドヴァイスをしてくれるらしい。目の前で、模範演技を見せてくれるのだと言った。その光景は、雄介だけにしか見えない。諏訪は、その越権行為については、まだ確認できていなかった。他の役者たちには、もちろん何も判らない。演出家としては、要らぬご親切だと追い払いたいところだが、相手は幽霊なので、簡単に追い払えないのと、幽霊のお陰で、雄介が芝居にのめり込んでくれていることもまた事実だったから、それならそれで、この際、利用しない手もないだろうとの、要は一貫しない判断になっていた。
 幽霊だから、全身全霊と形容するのは変だが、どういうわけがあるのか、この幽霊はとても献身的なのである。
 最近の稽古では、幽霊が、出演者たちの内なる心情を諏訪に中継する役割を自ら負うまでして、芝居作りに協力を惜しまない。
『スワ先生……あんなに綺麗に落書きを消していただいて……それもたったの半月ほどで……、ありがとうございました。……いえその、何も先生にあそこまでやっていただかなくても、落書きをしたガキども……いや生徒たちに、お灸をすえて貰えればと思ってたんですが……』
 内田登志朗が演じるところの――商店街のウチダは、生徒たちが悪戯で描き倒した商店街じゅうの落書きを、スワ先生が独りで、連日黙々と消して歩いていたことに、すっかり恐縮していた。そういう芝居である。
“内田さんはね、反抗期の孫・ヒロシが、再び自分に優しく接してくれることを心から願っているんだ。いじらしいね。きっと、今度の芝居を通じて、ヒロシに対する心を、まず内田さんのほうから開いてやらないといけないことに、気付くだろうね”
 稽古のとき、幽霊が、諏訪の耳元でそう告げた。
“黙々と落書きを消していたスワ先生のように。ドッシリしないとね。ただ小言をくどくど繰り返して、締め上げるだけでは駄目ね。逆に、怯えて腫れ物に触るような態度も反発を招くんだ。とてもこの大人には敵わないと高校生ちゃんに実感させるような、悠然としたポジショニングに内田さんが達すれば、孫のヒロシは降参する。芝居の中で、ユウスケが変わっていったのと同じようにさ。きっと、そのことに内田さんは気付くんだ”
 諏訪は、そう幽霊が耳打ちして教えてくれた内田の内面を想い、それだけでも、この芝居をやろうと決めて良かったと感じた。出演者たちの心に固くこびり付いている垢を、互いに露わにして掃除することで、観客の心へ真っ直ぐ届く舞台を作る――。
“そうじゃなかったの?”
 ――と、このあいだの稽古で幽霊に質された通りで、今度の芝居のコンセプトは、諏訪の心に迫ってくる抜き差しならないまでに切羽詰まった感情の発露を、とにかく思い切って晒してしまいたいことに発端があった。だからこそ、諏訪が暴走族のリーダーにのし上がってまで、徹底して超・悪ガキに成り切った本当の過去を、洗いざらい明かして、それを芝居に仕立ててしまおうと決めたのだ。
 ベッド傍らのサイドテーブルの上に、アイスコーヒーを注いだコップがあった。
(まったくもう……、あの幽霊は、どうしてあんなに、俺の心をダイレクトに読むんだ……)隠し通しておきたかったポイントまで、ことによると、幽霊に全て見透かされているかのような――“くすぐったさ”に似た感触が、諏訪にはあった。手がコップを掴んで引き寄せ、口が長く伸びたストローを食み咥えて吸った。
『驚きましたわよ。スワ先生。とても信じられませんことよ。だって、あの、佐野がですわよ。あの、最悪の生徒がっ! ホントかしら? 佐野ユウスケがねえ……。あり得ませんわっ! ここのところ家に帰るようになったとは聞いてましたけど、いまさっき、学校へ商店街のウチダさんからお電話がありまして、ユウスケがウチダさんのところまで謝りに来た……っておっしゃるんですのよ。落書きの件で……』
 松坂陽子が演じるマツザカ先生の台詞だ。
“ああ。この女は、なるほど役者だなあ。本心など、微塵も出さないで、あくまで仕事に徹しているね。この台詞には、松坂女史の女優としての才能が滲み出ているぜ”
 ――と、やはり稽古のとき、テレパシーで宣うた幽霊の解説を待つまでもなく、諏訪もそのことを把握していた。人を易々と信用しない女だと重々判っていたのである。口立てなので、諏訪が稽古場で告げた台詞をオウム返しにして演じて貰うのだが、何しろ松坂が一番諏訪の指示に刃向かったのだ。ストーリーの骨格があるのだから、あまり度を超したアドリブをされても困る。それは違うぞとNGを出すのは当然のことで、それが演出の仕事である。松坂は、それでも、ここはこうしたい、あそこはああしたい――と、散々我が儘を貫こうとして、諏訪を苦しめた。したくもない口立て芝居を強いられた腹いせからくる、邪気一杯の嫌がらせだったのだ。
『お陰さまで、ユウスケは、うちで暴れるようなことはもうありません。それどころか、おばあちゃんの代わりに病院まで薬を取りに行ってくれたりして。妹とも、ごく普通に話をするようになりましたし……。スワ先生だけは信頼できるからと、進学のことも相談させて頂くようなことを申しておりました。その……、まだ、わたしどもにはつっけんどんな物言いをしますが、あの……、スワ先生には何でもお話……しておりますでしょうか?』
 かほりが熱演しているユウスケ少年の母親役は、愛情に満ちている。――自分の実の息子を小児糖尿病の低血糖発作で失ってしまった悲しみを、――たかだか、キャンディー一つを滞りなく与えてやることができなかっただけで、哀れにも息子を死なせてしまった罪悪感を、この役を演じ切ることで乗り越えたいという真剣な気持ちが、事情を知っている諏訪にはヒシヒシと伝わっていた。
“諏訪さん……。かほりさんはねえ、これから絶対に幸せになってやろうと努めているよ。底力のある女性だから、きっと大丈夫だ。今度の芝居を演れるんで、これがチャンスだと、とても気が入っているんだよ。ボクには、それがすごく解るから、諏訪さんも、どうか納得してあげてちょうだいね”
 幽霊は、稽古のとき、窓の外の中空にふわりと浮かびながら、真っ白な筋肉質体型の裸体をカッチリと直角に曲げ、諏訪に対して最敬礼を以て頭を下げた。
 諏訪は、幽霊がどうしてそのようなことを丁寧に告げて寄越したのか、そのときは見当が付かなかった。
『それがですね、スワ先生。どうやら全部が全部、沼上高校の生徒が犯人じゃなかったんですよ。年の暮れになって、ほら、万引きだとか置き引きなんかが多発したとき……。いえね、あたしら商店街の人間は、ハナっから、てっきりそうだと決め付けてましたからねえ……、その……、沼上の生徒が悪さをしてるって』
 芝居の中では、ユウスケがすっかり心を入れ替え、ヤンキー小僧から足を洗ったことになっている。
『すると、ユウスケが独自に調査をした上で、事件に関わった人間を連れて、奪った金品を一つ一つ、お返しして回ったということなのですか?』
『そうなんですよ、スワ先生。あの子は、とにかく真っ正直に筋を通そうとするもんですから、こっちは圧倒されるやら、感心するやら……。金が無くて返せない連中には、何でも構わないから、タダ働きさせて使ってくれって。その代わり、どうか警察沙汰にだけはしないで、許してやってくれないかと……』
 稽古のこの場面で、幽霊は何も語ることなく、黙って俳優・内田登志朗の隣りに立ち、肩を抱いて励ますようなポーズをとった。もちろん、諏訪にはその様子が見えていたのだが、内田は全く気が付いていなかった。
(あのとき、稽古だったっていうのに、内田さん、うっすらと涙目になっていたよな……。お孫さんの優しさを、どうにかして取り戻したくて仕方ないんだよな、内田さん。きっとそうだ)諏訪は、チューチューとストローを鳴らして、空になったアイスコーヒーのコップの最後の一滴までを吸い尽くした。
 口立て芝居を思い付いたのは、そもそも諏訪自身が、おのれの心のうちでモヤモヤしている何かを、一度キチリと組み立て直したかったからなのだ。
“自分らしくあれ――だよ。雄介にも、諏訪さん……、あんた自身にも、そう言ってあげないと……ね”
 ――と、いつだったか、稽古の最中に幽霊が落としていった言葉が想い出された。
(内田さんも、それにかほりさんもそうだ。それぞれが、自分の心に痞えているものを、正直に、芝居の役柄へ映し出してくれているようだよね。悦美ちゃんだって、ヤクザに殺されてしまったエツミの役……、芝居の中で何度でも死ねると気付いてからは、もの凄い気の入れようで真剣に死んで、稽古してくれている。ちょっと演り過ぎだと感じるほど、ド派手に悶絶してな。もう、リストカットなんか止めて、中学のときレイプされた――そんな消したい自分の過去を、これから役者として、さらにいろいろな役柄を演じ切ることで、忘れちゃって欲しいと願っているよ……)
 翌日の稽古では、次の場面へと進まなくてはならない。
 クスリの密売が桁違いの稼ぎになったのと、それゆえ有頂天に舞い上がって、強気になった族メンバーたちが、暴力団の向こうを張るような愚挙に出て、エツミという犠牲者を出すなど、すっかりコントロールが効かなくなってしまった。
 エツミを死なせてしまってからというもの、スワ――十代の諏訪自身――はもう、暴走族で突っ張り続けることに嫌気が差してしまったのだった。舎弟どもを好きなように顎で使い、カツアゲやスリや置き引きで荒稼ぎしていた時代には全く気付かなかった虚しさに、襲われ始めたからだった。
 そもそも、暴力団が暴走族メンバーの子どもたちに目を付け、アンフェタミンをさばく下部組織として思うがままに利用するようになる、その直前で、スワ、否――あのときの諏訪――は、リーダーとして断固たる態度を取らなくてはならなかったのである。暴力団を排除するべきだった。カシラを張っていた諏訪なら、仁義を尽くすことで、それができた筈だった。あいにく、所詮は小僧だった諏訪には、すぐにも起るであろう事態が予見できていなかった。
 諏訪は、のし掛かる責任感の重圧に苦しんだ。
(いったい、何のために、俺は族のリーダー――ブラッキーロイヤルの支部長なんかにまで成り上がったんだ……。バカだった……)
 それ以前に、どうして諏訪がグレてしまったのかという根源的な問いが、まだ残されている。
 すなわち、グレてしまった表層的理由はレッテルを貼られてしまった恐怖感を払拭し、さらに誰も自分の心へ立ち入らないように防御の結界を巡らせることだったのだが、では果たして、そのレッテルの正体は何だったのか――との問いである。
 それこそが、諏訪を粗暴な振る舞いに向かわせたベーシックな原因だった。

       ***

 当時の警察署には、略号が「○の中に走の字」で“マル走”と呼ばれた暴走族対策専属の取締本部が置かれていたものだった。申すまでもなく、暴走族の少年たちにとっては大天敵で、喩え深夜であろうが――一朝、マル走警官の取り締まり部隊と遭遇することがあれば、仮に、その場でグループ同士の抗争が繰り広げられていたとしても、一時的にその争いを棚上げし、共闘することが不文律となっていたほどである。
 ここ、日影ビル、稽古場の仮想舞台には、
「大道具は、とにかくシンプルにするからね。机と椅子だけでいいんじゃないか。それもみんな、本ちゃん会場の有り物で充分だね。借りると金が掛かるだけだし」と、諏訪が指示した通り、警察署の取締本部という想定で、雑然と、折りたたみ椅子や空いたテーブルが配置されていた。
「この場面で乗るのは、少年・スワ、警察署員、ナレーションを語る現在のスワ先生、――以上です」スクリプターの知明ドンが、簡単に一同へ段取りを告げている。
 短パン姿の雄介は、諏訪が台本を拡げているテーブルへと近付いてくると、長身を屈め、小声で、
「ねえ……、今日は幽霊さん、さっそく諏訪さんの向こうに控えているね?」周りに聞こえないように、細心の注意を払った。
「ああ、そうなんだよ……。……ってことは、今日は、すでに雄介くんにも見えているんだね?」諏訪は、後ろのほうから腕組みをして見張っている――劇団代表・財部の気配を窺っていた。
 諏訪や雄介が幽霊のことをホンのちょっと話すだけで、最近は、酷い癇癪を起こすようになったのだ。
 様子を窺っていたのは幽霊氏も同じで、
{ハーイ! 雄介! 元気?}と、早速のご挨拶である。
 芝居に出して貰いたいと言ってくどかった。疾うに演出担当・諏訪の秘密アシスタントの地位を奪い取っていた。なにぶん、幽霊のことなので、どこかへ行けと追い出したところで意味がなかった。姿がないのに、声だけ、凍えそうな霊気と一緒に耳元で囁くとか、稽古場の窓の外で、真っ白な筋肉体を躍らせ――“やり投げ競技”の真似をしてふざけながら、テレパシーの技を用いて意識を送信するとか、電灯を点滅させたり戸棚を揺らすなどポルターガイスト現象を起こすとか、録音や画像データへ不正侵入を試み、声や顔を出して驚かせてみたりとか、幽霊の能力をフルに活かし、多様な手段を駆使して、自由自在に悪戯し放題なのだった。
{ボクを出演させないと言い張るなら、いよいよ意地悪をするもんねーだ}
 何を考えているのか、困ったものである。諏訪は、幽霊と相性が悪い財部の目もあるし、松坂陽子が幽霊を苦手としていることも明らかになったので、とにかく稽古のあいだは、幽霊のちょっかいを無視するしか他になかった。面倒だから、いっそのこと浄霊してしまおうかと言ったら、雄介が、それはいけないと応えた。幽霊が好きなのだそうだ。我輩が想うに、やはりそのことこそ、先祖代々、巌榊大神宮・聖皇の職位を受け継ぐ家柄――榊守家の、長男だからこそ持つ、遺伝子濃厚なる本能から現れ出ずる感覚なのだろう。
「頼むよ……。雄介くんも、知らぬ振りをしておくれね。藤六先生が狂うと嫌だから」
「うん。解った……」
{おらおら。二人で何をこそこそやっとるか?}幽霊は、筋骨隆々の逞しい純白の全裸を晒した姿で、
{ほらほら、さっさと始めないか!}調子に乗って戯けている。エアロビクスダンスの真似をやっているが、玄人裸足の上手さだ。
 諏訪は、カーゴパンツのポケットから真っ赤なバンダナを取り出して、額に巻き付けると、
「おはようございます。それじゃ、今日は、この前ちょっとだけ動いてみた、パントマイムの場面を仕上げまーす」幽霊など居りませんと、すました顔で稽古を開始した。
「この場面は警察署でしたね。スワ少年は、暴走族と縁を切りたくなって、ブラッキーロイヤルを自分の手で解体させてしまおうとする――と。いいですか雄介くん。覚えてるかい? スワ少年は、素直な気持ちに戻っています。グレてしまう以前の、悪くなかったころの自分になるのね……」
 幽霊は、ここそこで口を挟んでくる。
{あのねえ、だったら諏訪さんが、雄介に教えてやらなきゃ。――諏訪さんが、どうしてグレてしまったのか、本当のところをさ}
 いちいちうるさいと、諏訪は幽霊に向かって声を上げたくなる。稽古場の後方で控えていたオーナー財部が、次第に前のほうへ移動してきたのを察した。
「……だから、雄介くん自身もさ、芝居じゃない現実のきみもね、そろそろこの辺りから、登校拒否なんか始めちゃう前の、楽しく中学校に通っていた普通の子どものときを想い出して、可能なら、本当にそのときの自分に戻ってみないか」
「え……?」雄介は、突然そう言われて困惑していた。
{ほうら……。だから、そうするには諏訪さんが雄介の心の真実を知らないとさ……。藪から棒に、そんなこと言っても無理なんだってば}諏訪の脇で、幽霊が囁いている。もちろん、諏訪以外の誰にも聞こえてはいない。
「俺は、雄介くんの心の真実を知らないよ。家の後を継がされること、つまり、自分の進路を強制されることが嫌だとしか、たしか聞いていなかったよね。ここでいま、そのことを詳しく話せなんて言わないから、自分の心の中で、自分を見つめ直してごらん。どうして、オレは反抗しているのかな――ってさ……」
{おいおい、諏訪さんよ。それは、あんたも同じなんだって}幽霊が呆れた顔をしている。
「……じゃ、ナレーションを入れます。警官役の皆さん、よろしくねー。はい……『それからだよ。俺がブラッキーロイヤル・城南の解散を独断で宣言したのは。裏切り者めと罵声と糞尿を浴びせられたし、俺の実家に放火されそうになった』……ここは、まだアクションなしで構いません……」
 幽霊は、ふわりと真っ白なマッスル・ボディを浮かせるようにして、諏訪の正面へ廻った。いっぽう、重要な場面だと感じたのか、前に出てきた財部がスクリプターのテーブルに着いた。打ち込みをしているノートPCを覗き込もうとして、知明ドンに、あからさま、嫌な顔をされている。
 幽霊が、諏訪の表情を見据えるようにして言った。
{あれは、中学二年のときでしたっけ? ……}
 諏訪は、何を言い出すかと、ギョッとした目を中空に向けた。諏訪のその眼前には幽霊氏が見えていたが、右方向――スクリプター席に控える財部には、その不可解な様子が、幽霊由来とまでは想像できていない。
{……あの上級生たちにしてみれば、ただの“お楽しみ”だったのになあ……}
 幽霊の言葉を完全に無視して、諏訪は次へ進めた。
「……『だけど、俺は……もう嫌気がさしてるから、対決するのさえ、すっかりバカバカしくなっててな。警察に行って支部の旗を差し出した。そして、俺を逮捕してくれと言ったんだ』……、そうだね、ここで雄介くん、スワ少年は、はい、旗竿を持って、ほら、渡そうとする……。ああ、ダメダメ!」
 雄介が、身体を捻り返して演出のテーブル方向を睨んだ。どうしてダメなのだ――と、不満そうである。
 要は、元・暴走族・諏訪の、
「旗竿は両手で! 支部の旗は、族のシンボルなんだから、もっと大事そうに扱うんだ!」オーソドックスな感覚が、不意に生で出てしまったのである。
「族をやめるんだから、ホラよ、お前らにやるよ、――みたいに、テキトーな感じで渡すんじゃねえの?」雄介の口が尖っている。
「俺はそうしなかった」
「オレだったら、片手でヒョイだね」
「それだとな、旗に対して失礼なんだよ」
「だからー、やめるんだから関係ねえじゃん」
「…………」諏訪は、ちょっと考え込んだ。
{なあ、諏訪さんよ、あんた四十五歳だろ。雄介は、まだ十七だっけ? 自分の子どもでもおかしくない歳だぜ}幽霊は、世代が違えば感じかたも異なるのだと、テレパシー的ニュアンスで伝えた。
「……おっし、分かった。雄介くんの演りかたでいいや。片手でヒョイで」
{お? 諏訪さん、今日はやけに謙虚じゃないの? ボクの言うことを聞いてくれたなんて、初めてかなー?}幽霊は、なおもお調子全開である。
 諏訪は、幽霊を振り切ろうと、円筒形の巨体に似合わぬ素早い動きで舞台端に寄ると、
「そういう芝居でいくなら、ぞんざいな態度で支部の旗を警官に渡して、ちょっとだけ強がって見せてから、次第にゆっくりと力を抜いて、肩を落としてみようか。――降参です、みたいにな、――ほら、こういう風に……」敢えて実際に自ら動いて、演技を付けた。今回は口立てということで、台詞もその場その場で立ててきたのだが、同時に、あまり動いて見せることもしてこなかった。指示は出すけれども、全て、役者の自然な演技でと考えていたからだ。
 スイスイッと、軽快に飛んで追い掛けてきた幽霊氏が、また生意気なことを言った。
{自然な演技はボクも大賛成ですよ、諏訪さん。ボクみたいな霊体から見るとね、人間って、生きているあいだが――全部口立て芝居に見えちゃうんだ。だったら、自然な生きかたしないと。ね……、何も包み隠さずにさあ……。この芝居と同じじゃん? 役者の個性を役柄に投影して……だっけ?}
 諏訪は、幽霊をすっかり無視しようと思っていたのだが、
(じゃ、俺にどうしろと言うの! ……)ついつい、心の中でレスポンスしてしまった。
(……いけね、しまった、乗せられた!)
 幽霊は、余裕の笑みを浮かべ、
{そらそら、そんなに黙ってボクを見ていると、また財部さんが怪しがって、何か言い出すといけないよー}今度は諏訪のほうを振り切るように、ススッと元の演出席へ戻った。
(……ったくもう、人を食った幽霊だ)
 諏訪は、気を取り直し、
「次、いくねー。……『ようし、そうか、内部分裂かと、警察のマル走取締対策本部は攻勢に転じたわけだ。俺が降伏したと大喜びだったよ。これをチャンスと、東京最大の暴走族組織ブラッキーロイヤルを一網打尽に壊滅させることが、奴らの正義のスローガンになった』……はいはい、ここはねえ、警官のアクションが面白くないとね。警察官たちは、勝ち誇ったように……、エイエイオーでも一発、そこで演りましょうか。ね! ……」何事もなかったように装って、稽古を進めた。
{上級生たちは、諏訪少年たちを半分イジメてたつもりでいただろうに、諏訪少年にしてみれば、何と! それが、そんなにイヤじゃなかった……}
 諏訪は、警官役に演技を付けながらも、心の中が、
(ど……、どうして、そんなことまで知ってんだっ!)激しく動揺し始めていた。それを隠そうと、
「……オッケオッケ。お巡りさんたち、そういう感じで動いて下さい。……んで、次は雄介くんだぞー……」異様なほど、汗びっしょりになり、あちこち、稽古舞台狭しと動き回った。
「……ナレーション、いきますよ。……『道路交通法違反と、ヤクザが絡んでいた罪とで、俺は、すぐに逮捕された。そして、速攻で少年院送致決定だ。もちろん、俺は覚悟していたし、そうなることを望んでいたからな』……さあ、どう動く、雄介くん?」
「ガックリした感じー」
「もちろん、そうだな。だけど、考えてみて。エツミがヤクザの報復で犠牲になって、それで暴走族が嫌になった。それから、仲間たちに背を向けて、裏切るような形で警察に出頭し、支部の旗を差し出して、降伏したわけだ。そうしたら、速攻で少年院送りだったんだぜ。すごい早かったの。だけど、俺は覚悟を決めていたんだよ、実際マジで――そんときね。きっと、俺は見せしめになって重い罰を受けることになるって、予想が付いたんだ。でーもー、俺はそれを甘んじて受けるつもりだった。どうしてだと思いますか? はい、じゃ、そこの雄介くん!」熱漢教師を演じるように尋ねた。
「えー? どうしてって……」
 雄介の返答を遮って、幽霊が、横やりを入れてきた。
{諏訪さん。悪いこと言わないから、もっと雄介くんと、理解し合いなさいな。それと、新人の高井健二くんともね}
(は? 健二くんとも……だと?)意表を突かれてしまった。意味が解らずボウッとしてしまった。
「……もう答えが出てんじゃん! エツミが死んだからじゃねえの!」雄介が、正解を答えたので、頭が冴えた。
「そ……、そうだ! ……そうなんだよ、エツミのな、葬式のときの、あの……お母さんの言葉が、脳味噌に突き刺さったままだったんだよ……。俺、それが辛らくて、どんな罰でも受けなきゃいけないって、決心したの……」
 幽霊は、諏訪と雄介とに対してだけ――これ見よがしに、稽古場じゅうを飛び回りながら、テレパシーモードでこう言った。
{二人とも、自分勝手にレッテルを貼って苦しんでいるねえ。気持ちは解るけど、そのままでいいのかなー? ――諏訪さん、エツミならぬ……芳子がヤクザに殺されたことをさ、結果的に、おのれの我が儘が導いたことだと責め続けているね。――なあ雄介、この芝居が終わったら、どうするの? そのあとの人生、ずっと自分の出生の秘密を抱え続けるつもりかい? 二人とも、それじゃ何の解決にならない……か〜も〜よ〜……}終いのところは、怪談噺のような震え声に変わっていた。
 幽霊氏は、そのまま一気に稽古場の窓を通過して外に出てしまうと、やはり以前と同じく弓矢を射るポーズをとって、
{オ・リ・ン・ピ・アー}と、派手に叫んでから、スウッと消えてしまった。
 諏訪と雄介は、財部に気付かれないよう、互いにそっと目と目を見合わせた。
 そして、各々、大きな溜め息を一度ずつ吐いてから、やはりこっそりと俯いた。

  ◆幽霊香盤表<第8幕>へ、つづく◆

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