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四月に入ってから、街のあちこちに、ひと目で新入社員だと判る服装をした男女が群れを成している場面に遭遇する。 どうして、ひと目で判るのかと言えば、彼/彼女らが挙って同じ色/デザインのスーツに身を固めているからだ。 とくに色については、みなことごとく黒に近い濃紺かと。 まるで、制服を着用させられているかのように、全ての新入社員が同じ格好をしている。誠に奇異なる態だ。 ・ このあいだ、NHKの番組を見ていたら、<地頭力/じあたまりょく>なるものを取り上げていた。 新入社員の面接テストなどに絡めて。 要するに、知識偏重型だったこれまでの入社試験が、企業に依っては、思考スキルの有無や高低を査定する新しい傾向を持ち始めたことを紹介していた。 そこで、<地頭力/じあたまりょく>なる流行語を耳にした。奇妙な言葉だと感じた。 もともと<地頭/じとう>という言葉があるが、それを無視して、<じあたま>と、新概念を生んだと想える。 〔参考〕 http://www.toyokeizai.co.jp/pub/recommend/555986/index.html 地頭/じとう―――とは、鎌倉・室町の時代、幕府が荘園や国領などを管理するため、守護職とともに全国に配置した支配機関である。 <泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ>と、ことわざにもなっている。 泣いて我が儘を言い、聞き分けのない子どもは、強引な支配者・地頭(じとう)とも同じく、いくら理屈を説いて対抗しても勝ち目は無い。転じて、道理の通らない相手に対しては正攻法は通じない、あるいは、こちらから諦めて身を引くしかない、賢くあれ―――といった意味だ。 もともと<分別をわきまえる>などの<分別/ふんべつ/hunbetsu>という言葉があるにも関わらず、いつしか<分別ゴミ>の<分別/ぶんべつ/bunbetsu>なる新語が生まれ、定着したことを連想した。 近頃の入社試験では、たったいま書いたような、ともすれば知識だけでものを語ることの無駄を自覚し、 問い:如何にして、富士山を移動させることができるか? 問い:日本では、一年間に何個の鍋類が売れるだろうか? 問い:五大陸のうち、一つを消してしまうとすれば、どの大陸にすべきか? いずれも、設問に対する正解/不正解を査るのではなく、どのように推論を展開したのか、その過程で、思考する力=地頭力をテストしようと言うのだ。 人事サイドは、企業の即戦力になることを期待し、優れた地頭力を湛える新人を発掘したいと、懸命なる投資努力を惜しまない。 それが、最先端/最前線の求人姿勢なのだと、よく解った。 〔参考〕 クローズアップ現代 http://www.nhk.or.jp/gendai/ 何も反論はないが、大変な時代になったものだと感じた。 いつのころからだったか、日本の教育は受験対策を意識した知識偏重型なので、それをやめにして、ゆとりある教育環境で、むしろ観察/思考する能力を養おうとの展望から、<ゆとり教育>なるものが始まったことがあったように記憶している。 初めは悪くないと思ったが、円周率を3.14……ではなく3に省略して教えると聞くに及んで、ほうぼうから疑問の声が上がった。 やがて、諸外国の子どもたちと日本の子どもたちを比較して、どうやら日本の子どもたちの学力低下が著しいようだと判ってくると、これではいけない、もっとちゃんと知識を学ばせよう―――との反動が起こるに至った。 想うに、日本政府=文科省が進めたプランが中途半端なものだったのか。 教えるべき基礎知識を、しっかり教えておきながら、同時に思考力、つまり地頭力を養う教育ができなかったものかと、いまになって顧みたい。 基本的に、受験/進学のシステムを変えない限り、こうした停滞がいつまでも続いてしまうのではないか。 初等・中等教育=義務教育では、何より基礎知識をしっかりと教え、たっぷりと時間を掛けて地頭力をも鍛え上げる。その時期、あたりまえに、ちゃんと勉強していれば、誰でも上級の学校へ入学できるようなシステムを整え、要は、入学は簡単だが卒業するのが難しい高校・高専→大学→大学院といった流れを構築したら良かろうと、僕は、かねがね感じていた。 いわゆる<社会人になる>ステップに立つまでに、教育の場で、いくらでも地頭力を養う時間はあったのではないか。 なのに、相変わらず知識偏重型の受験スタイルを維持し続けてきたがため、入社試験においてさえ、あらためて漢字の読み書きを問うような、おかしなことになっていたのではないだろうか。 加えて想うに、諸人の生き様において大事なのは、路線変更を決めるチャンスを、人生の至るところ、いくつも設けられるようにすることだ。 例えば、義務教育を経て高校へ進んだとして、すでに書いたように、卒業することが難しい方式を導入すれば、どうしても落伍者が発生する。 このとき、落伍する者だって決して悪くはない、落ちこぼれることもまた人生であって、自分に向かないと判断できることは、どんどんと諦め、別の道への模索を促し、またそれを当人が受け入れてゆく―――と、そうした意識環境を作り出す必要性を感じる。 つまり、全ての人間が、義務教育を済ませたら高校へ進学しなくてはいけないわけではないし、大学/大学院へ進むような学生に至っては、さらにわずかな割合で構わないではないか―――という話しだ。 下手をすると、猫も杓子も大学を卒業してしまうような実態を、この先、あらためてはどうかと申したいわけだ。 企業の一部が、知識偏重型の入社試験をやめようとしているのなら、同時に、履歴書などで最終卒業学府を問うような態度も、一緒に捨て去るべきではないだろうか。 日本では、中学生になると、制服を義務づけられることが多い。 そして、高校あたりでも毎日、制服を着ていた学生たちが、大学に入ると、いったん制服とは、おさらばをする。 僕も、やはりそうだった。 大学四年のとき、他の同期から遙かに遅れをとって、僕もいわゆる就活=就職活動を始めた。いまから25年も前のことだ。 たしかに、あのころにしても、就活のスーツは濃紺が主流ではあったが、中には、ダークグレーのスーツを着ている奴がいたり、明るいブルー地だったり、かなり色合いはまちまちだった。 僕は、ダークグリーン地に、軽く縦のストライプが入ったスーツを着て、就活に勤しんでいた。一張羅だったから、けっきょく、最初に就職した会社にも、その同じスーツを着て仕事に出た。 就活のありかたが、時代を経て大きく変化したのだろうから、僕らの時代のように、あらかじめ採用内定を獲得しさえすれば、あとの入社試験がごく形式的なもので済んだような、イイカゲンなものではなくなっているのか―――とは想う。 知識偏重型の入社試験から、地頭力を問うようなものへ、企業に依っては傾向を全く変えてしまおうとしていることからも、そうした<ありかた>の違いを察することができる。 だったら、見てくれより中身重視、就活にせよ、新入社員となってからにせよ、スーツの色もデザインも、もっと自由でカラーフルなものであって良いに違いない。 四月に入ってから、街のあちこちに、ひと目で新入社員だと判る服装をした男女が群れを成している場面に遭遇する。 どうして、ひと目で判るのかと言えば、彼/彼女らが挙って同じ色/デザインのスーツに身を固めているからだ。 とくに色については、みなことごとく黒に近い濃紺かと。 まるで、制服を着用させられているかのように、全ての新入社員が同じ格好をしている。誠に奇異なる態だ。 このような景色を見るに、せっかくの地頭力ベースの入社試験にも、きっといずれは傾向と対策が練られ、どこかの出版社が地頭力マニュアル本を出すような羽目になるかも知れない。 画一化済み人間、画一的な知識をいっぱい詰め込んだ人間―――などではなく、個性/個能が豊かな人間を見極めたい企業なら、 『就活時の服装など、どうでも良いことだ』 と、取り立ててチェックをしないのではないかとも想像できる。 あるいは、それとこれとは別で、やはり見てくれ=外観は、黒に近い濃紺地に、前ボタン三つのデザインでなくてはいけないのだろうか。 同質本位、画一主義の企業社会にあって、ゲイ/同性愛者/LGBTである事実を隠し通さなければならないことは、僕らの苦痛の最たるものだ。 ゆえに、個性/個能を重んじる姿勢が社会一般に拡がってゆくのなら、新入社員が、全員で同じスーツ姿に身を包むような奇観を呈する慣習も、どうか淘汰されますように―――と、僕は願う。 いっけん、脈絡のなさそうな話しだったが、新手の入社試験で個能を問うこと/新入社員のお揃いスーツ/同性愛者の苦悩、これらには実際のところ、共通した問題的本質が貫いている。 人間それぞれが、それぞれらしくあってこそ、世の中は楽しいのである。 そうと解っているのに、日本社会の変化は、まだまだチグハグなもので、徹底した激烈なるものには程遠い。 黒に近い濃紺で統一された新入社員の背広姿を見つけるたびに、ここしばらくは、がっかりさせられるのだろうと想う。 クリックプリーズ
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地頭力ってのは面白いんですがね・・。それを鍛えないと企業に採用されないぞ、という脅迫めいたシステムってのはどうなんでしょう。「勉強しろ」と言われると、勉強が好きな人間でも嫌いになる。柳田理科雄さんの本でも読んで、楽しんで地頭力が身につくのがいいんですがね。 |
アッキー 2008/04/07 01:02 |
とりあえず、やってみましょう。 |
アッキー 2008/04/07 01:20 |
>アッキーさん |
円山 2008/04/07 07:01 |
う〜ん・・・個人的には『我慢』を覚える意味で、ある程度の画一性があっても良いとは思ってるんですけどね(^^; |
1st 2008/04/07 20:00 |
>1stさん |
円山 2008/04/08 02:11 |
ご無沙汰しております。しばらく日本を離れていたのですが、いつも帰宅の電車で気になるのが無言の人々です。混雑した車両から降りる時に、ただ一言の「すいません、降ります」も無く、無言でじわじわ圧力を加える。周りの人たちも、それを多少迷惑そうにチラ見しつつ、無関心を決め込む。僕はこの感じが非常に不快なので、必ず声をかけることにしておりますが、しかし「どうぞ」の一言が返される事はほとんどありません。意志を伝えることの、いかに空しく思われることか。 |
darimana 2008/04/08 04:56 |
>darimanaさん |
円山 2008/04/09 00:18 |
>さて、OL風とオバサンは、どうして対立する羽目になったのでしょう―――かね? |
darimana 2008/04/09 05:25 |
>darimanaさん |
円山 2008/04/09 11:57 |
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