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help リーダーに追加 RSS 【A Gay's Mumble】 新入社員の背広姿<画一化の憂鬱>

<<   作成日時 : 2008/04/06 11:01   >>

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 四月に入ってから、街のあちこちに、ひと目で新入社員だと判る服装をした男女が群れを成している場面に遭遇する。
 どうして、ひと目で判るのかと言えば、彼/彼女らが挙って同じ色/デザインのスーツに身を固めているからだ。
 とくに色については、みなことごとく黒に近い濃紺かと。
 まるで、制服を着用させられているかのように、全ての新入社員が同じ格好をしている。誠に奇異なる態だ。

 このあいだ、NHKの番組を見ていたら、<地頭力/じあたまりょく>なるものを取り上げていた。
 新入社員の面接テストなどに絡めて。
 要するに、知識偏重型だったこれまでの入社試験が、企業に依っては、思考スキルの有無や高低を査定する新しい傾向を持ち始めたことを紹介していた。
 そこで、<地頭力/じあたまりょく>なる流行語を耳にした。奇妙な言葉だと感じた。
 もともと<地頭/じとう>という言葉があるが、それを無視して、<じあたま>と、新概念を生んだと想える。

〔参考〕
http://www.toyokeizai.co.jp/pub/recommend/555986/index.html


 地頭/じとう―――とは、鎌倉・室町の時代、幕府が荘園や国領などを管理するため、守護職とともに全国に配置した支配機関である。
 <泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ>と、ことわざにもなっている。
 泣いて我が儘を言い、聞き分けのない子どもは、強引な支配者・地頭(じとう)とも同じく、いくら理屈を説いて対抗しても勝ち目は無い。転じて、道理の通らない相手に対しては正攻法は通じない、あるいは、こちらから諦めて身を引くしかない、賢くあれ―――といった意味だ。

 もともと<分別をわきまえる>などの<分別/ふんべつ/hunbetsu>という言葉があるにも関わらず、いつしか<分別ゴミ>の<分別/ぶんべつ/bunbetsu>なる新語が生まれ、定着したことを連想した。

 近頃の入社試験では、たったいま書いたような、ともすれば知識だけでものを語ることの無駄を自覚し、

問い:如何にして、富士山を移動させることができるか?
問い:日本では、一年間に何個の鍋類が売れるだろうか?
問い:五大陸のうち、一つを消してしまうとすれば、どの大陸にすべきか?

 いずれも、設問に対する正解/不正解を査るのではなく、どのように推論を展開したのか、その過程で、思考する力=地頭力をテストしようと言うのだ。

 人事サイドは、企業の即戦力になることを期待し、優れた地頭力を湛える新人を発掘したいと、懸命なる投資努力を惜しまない。
 それが、最先端/最前線の求人姿勢なのだと、よく解った。

〔参考〕
クローズアップ現代
http://www.nhk.or.jp/gendai/


 何も反論はないが、大変な時代になったものだと感じた。

 いつのころからだったか、日本の教育は受験対策を意識した知識偏重型なので、それをやめにして、ゆとりある教育環境で、むしろ観察/思考する能力を養おうとの展望から、<ゆとり教育>なるものが始まったことがあったように記憶している。
 初めは悪くないと思ったが、円周率を3.14……ではなく3に省略して教えると聞くに及んで、ほうぼうから疑問の声が上がった。
 やがて、諸外国の子どもたちと日本の子どもたちを比較して、どうやら日本の子どもたちの学力低下が著しいようだと判ってくると、これではいけない、もっとちゃんと知識を学ばせよう―――との反動が起こるに至った。

 想うに、日本政府=文科省が進めたプランが中途半端なものだったのか。
 教えるべき基礎知識を、しっかり教えておきながら、同時に思考力、つまり地頭力を養う教育ができなかったものかと、いまになって顧みたい。

 基本的に、受験/進学のシステムを変えない限り、こうした停滞がいつまでも続いてしまうのではないか。
 初等・中等教育=義務教育では、何より基礎知識をしっかりと教え、たっぷりと時間を掛けて地頭力をも鍛え上げる。その時期、あたりまえに、ちゃんと勉強していれば、誰でも上級の学校へ入学できるようなシステムを整え、要は、入学は簡単だが卒業するのが難しい高校・高専→大学→大学院といった流れを構築したら良かろうと、僕は、かねがね感じていた。

 いわゆる<社会人になる>ステップに立つまでに、教育の場で、いくらでも地頭力を養う時間はあったのではないか。
 なのに、相変わらず知識偏重型の受験スタイルを維持し続けてきたがため、入社試験においてさえ、あらためて漢字の読み書きを問うような、おかしなことになっていたのではないだろうか。

 加えて想うに、諸人の生き様において大事なのは、路線変更を決めるチャンスを、人生の至るところ、いくつも設けられるようにすることだ。
 例えば、義務教育を経て高校へ進んだとして、すでに書いたように、卒業することが難しい方式を導入すれば、どうしても落伍者が発生する。
 このとき、落伍する者だって決して悪くはない、落ちこぼれることもまた人生であって、自分に向かないと判断できることは、どんどんと諦め、別の道への模索を促し、またそれを当人が受け入れてゆく―――と、そうした意識環境を作り出す必要性を感じる。

 つまり、全ての人間が、義務教育を済ませたら高校へ進学しなくてはいけないわけではないし、大学/大学院へ進むような学生に至っては、さらにわずかな割合で構わないではないか―――という話しだ。
 下手をすると、猫も杓子も大学を卒業してしまうような実態を、この先、あらためてはどうかと申したいわけだ。

 企業の一部が、知識偏重型の入社試験をやめようとしているのなら、同時に、履歴書などで最終卒業学府を問うような態度も、一緒に捨て去るべきではないだろうか。

画像

 日本では、中学生になると、制服を義務づけられることが多い。
 そして、高校あたりでも毎日、制服を着ていた学生たちが、大学に入ると、いったん制服とは、おさらばをする。
 僕も、やはりそうだった。

 大学四年のとき、他の同期から遙かに遅れをとって、僕もいわゆる就活=就職活動を始めた。いまから25年も前のことだ。
 たしかに、あのころにしても、就活のスーツは濃紺が主流ではあったが、中には、ダークグレーのスーツを着ている奴がいたり、明るいブルー地だったり、かなり色合いはまちまちだった。
 僕は、ダークグリーン地に、軽く縦のストライプが入ったスーツを着て、就活に勤しんでいた。一張羅だったから、けっきょく、最初に就職した会社にも、その同じスーツを着て仕事に出た。

 就活のありかたが、時代を経て大きく変化したのだろうから、僕らの時代のように、あらかじめ採用内定を獲得しさえすれば、あとの入社試験がごく形式的なもので済んだような、イイカゲンなものではなくなっているのか―――とは想う。
 知識偏重型の入社試験から、地頭力を問うようなものへ、企業に依っては傾向を全く変えてしまおうとしていることからも、そうした<ありかた>の違いを察することができる。

 だったら、見てくれより中身重視、就活にせよ、新入社員となってからにせよ、スーツの色もデザインも、もっと自由でカラーフルなものであって良いに違いない。

 四月に入ってから、街のあちこちに、ひと目で新入社員だと判る服装をした男女が群れを成している場面に遭遇する。
 どうして、ひと目で判るのかと言えば、彼/彼女らが挙って同じ色/デザインのスーツに身を固めているからだ。
 とくに色については、みなことごとく黒に近い濃紺かと。
 まるで、制服を着用させられているかのように、全ての新入社員が同じ格好をしている。誠に奇異なる態だ。

 このような景色を見るに、せっかくの地頭力ベースの入社試験にも、きっといずれは傾向と対策が練られ、どこかの出版社が地頭力マニュアル本を出すような羽目になるかも知れない。

 画一化済み人間、画一的な知識をいっぱい詰め込んだ人間―――などではなく、個性/個能が豊かな人間を見極めたい企業なら、
『就活時の服装など、どうでも良いことだ』
 と、取り立ててチェックをしないのではないかとも想像できる。

 あるいは、それとこれとは別で、やはり見てくれ=外観は、黒に近い濃紺地に、前ボタン三つのデザインでなくてはいけないのだろうか。

 同質本位、画一主義の企業社会にあって、ゲイ/同性愛者/LGBTである事実を隠し通さなければならないことは、僕らの苦痛の最たるものだ。
 ゆえに、個性/個能を重んじる姿勢が社会一般に拡がってゆくのなら、新入社員が、全員で同じスーツ姿に身を包むような奇観を呈する慣習も、どうか淘汰されますように―――と、僕は願う。

 いっけん、脈絡のなさそうな話しだったが、新手の入社試験で個能を問うこと/新入社員のお揃いスーツ/同性愛者の苦悩、これらには実際のところ、共通した問題的本質が貫いている。

 人間それぞれが、それぞれらしくあってこそ、世の中は楽しいのである。
 そうと解っているのに、日本社会の変化は、まだまだチグハグなもので、徹底した激烈なるものには程遠い。

 黒に近い濃紺で統一された新入社員の背広姿を見つけるたびに、ここしばらくは、がっかりさせられるのだろうと想う。


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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
地頭力ってのは面白いんですがね・・。それを鍛えないと企業に採用されないぞ、という脅迫めいたシステムってのはどうなんでしょう。「勉強しろ」と言われると、勉強が好きな人間でも嫌いになる。柳田理科雄さんの本でも読んで、楽しんで地頭力が身につくのがいいんですがね。
アッキー
2008/04/07 01:02
とりあえず、やってみましょう。

問い:如何にして、富士山を移動させることができるか?
答え:何もしなくても富士山は勝手に移動する。ウェゲナーの大陸移動説の見地から、陸地は少しずつ動いているのだし、地動説の見地から、地球は自転・公転をしている。よって、これら全てを停止させる科学力を持たない、または持っても発動しないこと。

問い:日本では、一年間に何個の鍋類が売れるだろうか?
答え:鍋類の寿命は私の経験上、10年程度である。また、日本に住んでいる人はおよそ13000万人。一家庭の人数が平均2人とすると、家庭数は6500万。一家庭に鍋は3つくらい必要だとしたら、6500万×3÷10で、約2千万個。

問い:五大陸のうち、一つを消してしまうとすれば、どの大陸にすべきか?
答え:地球上の大陸はユーラシア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、南極の6つである。よって、この問題は欠陥問題である。

こんなもんでしょうか?
アッキー
2008/04/07 01:20
>アッキーさん
 人には、それぞれ適性がありますので、地頭力がどれだけ強くても、果たして実践の場面で、それが充分に活かせるかどうかとなると、これまた別問題だと言えるかも知れません。たとえば、人間関係を巧くこなせないとか、完全主義に過ぎるとか、自信が持てないとか、ウツになりやすいとか、怠け者であるとか、誘惑に弱いとか、地頭力以外の部分で案外、役に立たなかったとのケースだって、なきにしもあらず―――かも。なので、今後、全ての職種で地頭力式採用試験が行われるようになるとは、あまり想えませんけれども、一つの傾向として、こういうものも出てきたぞと、ならばこれこれこうだぞと、そういう話なのでしょう。あまたの人々の中には、天才的ひらめきタイプもいれば、じっくり熟考タイプもいるでしょう。要は、地頭力にせよ何にせよ、新手の選抜テストによって、個々がおのれの適性にふさわしい職場を得ることができるのなら、そこについてはベターだろうな―――と。
円山
2008/04/07 07:01
う〜ん・・・個人的には『我慢』を覚える意味で、ある程度の画一性があっても良いとは思ってるんですけどね(^^;

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080317-00000621-reu-ent

上記リンクにあるように、こういった事では先進的だと思われているアメリカでも、変な格好は困るみたいですし(笑

ゆとり教育ですけど、今になって慌てふためいているのはおかしな話です。
自分の認識としては、知識偏重の詰め込みをやめようって話なわけですから、そもそもある程度の学力低下は覚悟の上での事だと思ってました。
まあそれも含めて中途半端な方策だったということなのかもしれませんけど(^^;
1st
2008/04/07 20:00
>1stさん
 ドレスコードを満たすことは大事ですね。その場にふさわしい服装をすることは、大人としての”たしなみ=心がけ”ですから。
 だけど、色柄からデザインから、まるで制服みたいに統一する風潮があるとするなら、行き過ぎじゃないかしら―――と、僕は思っちゃいます(^^)
 ゆとり教育は、受験システムのほうを、そのまんまにしておいたから、不味いことになってきたように感じます。
円山
2008/04/08 02:11
ご無沙汰しております。しばらく日本を離れていたのですが、いつも帰宅の電車で気になるのが無言の人々です。混雑した車両から降りる時に、ただ一言の「すいません、降ります」も無く、無言でじわじわ圧力を加える。周りの人たちも、それを多少迷惑そうにチラ見しつつ、無関心を決め込む。僕はこの感じが非常に不快なので、必ず声をかけることにしておりますが、しかし「どうぞ」の一言が返される事はほとんどありません。意志を伝えることの、いかに空しく思われることか。
円周率3.14から小数点以下を切り捨てることで子供たちが失ったのは、実は学力ではなくて「割り切れない世界」という概念をかいま見る機会だったように思えてなりません。お仕着せな個性や万能感と引き換えに、あっさり放棄された想像力。世界には割り切れない事柄(あるいは個性)が当然存在し、だからこそ妥協点である「公共」を互いに尊重しつつ、非妥協点である個人の「思想」「哲学」をも尊重する。そうした本来の「ゆとり教育」がなされていれば、混雑した電車のマナーも少しは改善されそうなものですが。
darimana
2008/04/08 04:56
>darimanaさん
 お帰りなさいませ。また、いつもの南の国でしたか? 羨ましゅうございます(^^) / 電車の中。優先席で、通路を挟んで向かい合うのは20代後半ほどのOL風と、60代後半のオバサン。優先席なのに、ケータイを使っていたOL風を、オバサンが執拗にたしなめていました。いや、あれは、たしなめると言うより、糾弾している感じ。優先席でケータイを使用すること相成らぬ、さっさと席を立ち、移動せよと命令していたのです。OL風は、初めのうち、無視を決め込んだのですが、断定的に一喝されたのが面白くなかったようで、やがて口答えを始めました。OL風の逆ギレで、オバサンもすっかり頭に血が上り、小生意気な子どももあったもんだと、大きな声で、さんざん悪態をつきました。周囲の乗客は、不愉快そうに喧嘩の現場を離れました。端から見ていると、どっちもどっちだという気になりましたが、さて、OL風とオバサンは、どうして対立する羽目になったのでしょう―――かね?(^o^)
円山
2008/04/09 00:18
>さて、OL風とオバサンは、どうして対立する羽目になったのでしょう―――かね?

そうですね。まさにこの部分なんですよ。
僕自身ディスカッションというものをいかに誤解していたか、ということに気がついたのが遅かったものですから、公共空間でのこうゆう状況は何とかならないものかなあ、といつも感じます。ディスカッションというのは、ある意味「感情の対立」という袋小路に陥らないための技術ですから、もっと初期教育にこそ取り入れられるべきではないでしょうか?
darimana
2008/04/09 05:25
>darimanaさん
 どこかこう、日本のマナー感覚ってスマートじゃない。仰るとおり、教育の貧困ですなあ。そうですね、議論の技術。議論は喧嘩ではなく、むしろ喧嘩を理性/理論的に制御する方法=マナーですよね。まさに同感です。例えばですが、ネットバトルを意図的に起こそうとする人たちが存在するのは、議論をストレスの発散と誤解しているせいなのでしょうか。優先席マナーをたしなめることは正しい行為ですが、それにもまたマナー=方法というものがあるのです。さもないと、一切のコミュニケーションが喧嘩と化して、地獄のような世の中になってしまうことでしょうからね(^^;
円山
2008/04/09 11:57

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