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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ小説】 幽霊香盤表 第6幕 (全17幕)

<<   作成日時 : 2008/04/03 07:56   >>

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  ◆◆幽霊香盤表<第5幕>からの、つづき◆◆

 諏訪が、初めて会った瞬間に、オピューム・マドンナの香水を振り掛けているのが、すぐに解った。さり気なくではなく、体当たりで鼻を鋭く突いた。明らかに、匂わせ過ぎだった。
「はじめましてえー。あたいは悦美。新橋のチケットショップでパートしてまーす。えっとー、歳はねーえ、……いくつぐらいにみえるうー?」
「働いているんだから、そうだなあ……」
 諏訪は、この女性が日常的に演技をして生きていることを見抜いている。年齢が何歳ほどに見えるかを尋ねるだけ、本来の――ではなく、作り変えた自己を顕示する欲求が強い。
「……ま、二十歳そこそこってとこ?」
「うっそー……。十代には見えないのー?」
 色白である。背丈はあまり高くない。ちょっとグラマーっぽく育ち気味のスポーツウーマン系。言ってみれば、女ガチムチ。新入団員ではない。これでも、れっきとした劇団鰻登の正団員なのだ。
「え? いや、だから、色気を感じるからさ。十代だと、かえって意外……みたいな?」
「ふうん。それってー、褒め言葉なのよねー?」
 ふくよかな顔をしているが、ちょっときつい目をする。
 稽古場の窓際に散らばっていたスチール椅子やテーブルがバタバタと片付けられ、板床を広々と空けてある。その空間を使って、思い思いの動きやすい服装に着替えた男女合わせて六人ほどの劇団員たちが、稽古を前に準備体操をやっている。
“二人ずつ組んでー。ストレッチー、背中に相手を乗せてー”
“ヴー、ヴー、痛てえー、ヴー”
“あんちゃん、身体が硬いわねー”
 芝居だったら、この悦美にセーラー服を着せても全くミスマッチは無いのだが、おそらく一発で典型的・ヤンキーコギャルと化すだろうと、諏訪は直感していた。しかも、悦美の人となりを財部に質したら、演劇の経験はさほどなく、これからどう鍛えようか思案しているとのことだった。それを知っただけで、彼女にあてがう役柄が決まり、イメージも完成した。
「えへっ! あたい、二十四歳だよーん」
「うわ! ルックス若いなあ!」
 ――と言って驚いて見せた諏訪は、どこかで悦美が、自分の成長を停止させていることに気付いた。それほどの何かが、これまで彼女が生きてきたどこかの時点で起ったのだろうと。
“はい、次! 横向きになって、引っ張り合うー”
“ヴー、ヴー。ヴァー! 強過ぎだよう”
“ポキポキ鳴らなくなるまで、よーく解すのよー”

       ***

「ハイ! ここから、俺のナレーションが入るよー……『自暴自棄になり、メチャクチャをやっていたなあ。人生どうなっても構わなかった』……そこで、雄介くん、ほら出て出て前へ! そうだな……そこで、そっちのきみ! 悪いけど、このときさ、雄介くんの面倒見てあげて。立ち位置そこ。バミっといて。そう。それで、部下が暴れて警察を困らせます。……『襲撃また襲撃で暴れまくってスッキリして、警察をぶっちぎってキリキリ舞いさせ大笑いしてた』……あのですね、あまりコミカルに演り過ぎないで。笑わせるためのパントマイムじゃないんだから。もっとヤバい感じで。スワ少年はね、当時が人生で一番調子に乗っていた時期だったね。ほんっとにね、恐いものがなかったね。みんな、そういう経験したことありますかー? たぶん誰も無いと想うよ。マジ、ホントに何も恐くないなんてこと、普通あり得ないでしょ? だけどね、あの頃――俺が暴走族のブラッキーロイヤルっちゅうとこでカシラを張ってたときは、百パーセント、だーれも、俺に逆らう奴なんて存在してなかったんよ。全部思い通りなんてこと、あるんですよ――いや、あったんです。そういう、俺が――いっちばん、どうっしようもない頃のパントマイムなんです――この場面で演るのが。皆さん、そない笑ろうてますけど、ホンマでっせー。ま、ですから、今日はまだ迫力が全然ないんですけど、追い追いね、いや次回必ず、マイムでお馴染みの望月先生を呼んで、きっちりと動きを整えて頂きますからね。……はい、続けます。……『配下は俺に絶対服従だったから、悪いことは何でもやらせた。恐喝やスリ、万引きに強盗。成功報酬として現金を渡したり、組織の中で昇格させた』……あのー、何を演ってるのか、さっぱり解りまへん、アカン! 困ったな、ここ。どうしまひょ――って、なんで俺、ときどき関西弁入っとんのかいな。えっと、どうするかな、これを動きだけで表現するのは。さーて、どうしよ……。望月センセに訊いておくけどね。うーん、俺のイメージだとさ、恐喝、スリ、――これを上手奥から下手の手前に掛けて、何人かが一緒くたで斜めに動きながら、――万引きと強盗の役は、下手の奥から上手の手前、舞台端まで、ぎりぎりに歩いてくる。途中でクロスさせるの。そいでもって、全員の流れの中で、札束が巡り巡ってね、元締めであるスワ少年の場所まで集まってきます、それを舎弟どもに配りますと。そういう動きを付けて貰いたいと思う。よし。はい、それで次ね……『身分が上がれば上がるなりに、奴らも貢がせることができたからな。ああ、絶頂期だったさ。ギャングの親玉気取りってとこだったよ』……と言うとこ行きまーす。このまんま続けても大丈夫でしょー? 身体がよく動く人たちばっかりだから……。ねーっ? ほな、行きまっせー」

       ***

“股関節のストレッチ。始め!”
“できるだけ大股に! 右足をグッと前に出してっ”
“痛ててー。無理無理!”
“だめだめ。膝を曲げてー。我慢できる限界まで、腰を落とすー”
 悦美は、ライトブルーの無地でドライメッシュのVネックTシャツに、薄いピンクの、やはりドライテック加工を施したスパッツ――と、ファッションは素直にスポーツ感覚で、特別、汗の放散に気を遣っているのが判った。しかし、諏訪は、彼女の両手首にピッタリと巻かれたダークグレーのリストバンドが、妙に不自然だと感じた。汗に湿って、そこだけ浮いて見えたからだ。
 何も言わずに、ジッと手首を観察していると、
「どうしたのよ? 何、見てんの?」悦美の挙動が落ち着かなくなった。
「……んん。どうでもいいことかも知れないけれどさあ、赤くなってるね?」
「えっ?」
「赤くなってるじゃん? 手首の皮膚が。巻いているリストバンドの内側のほう。ほら……」
 だいぶ蒸れているようで、彼女は、ときどき手首の塩梅を気にしていたのだ。
「かゆいんじゃない? どうしたの?」
「なっ、何でもないよ!」極端な拒絶反応だ。様子がおかしい。
 諏訪は、強引だとは分かっていたが、役者の個性を炙り出すためには、どうしても知っておきたいことだった。
「教えておくれよう。このインタビューって、芝居作りのためなんだからさあ。悦美ちゃんの、本当の姿をちょこっとだけ知りたい。何か、隠していることがあったら、一つだけでいいよ、俺に教えてくれないか?」瞬時にして、悦美の左手を取った。
「いやだ! エッチ!」身体を揺すって、諏訪の手を振り解こうとした。
「変な意味じゃないよう」リストバンドに手を掛けた。
「別に、何でもないってばー」
「だったら、教えてくれてもいいじゃん?」リストバンドをめくってみると、
「あっ! そうら……、これ……怪我しているよね? いったい、どうしたんだい?」
 手首の内側、静脈の辺りに、三、四本の真っ直ぐな筋目の傷が付いていた。
「んーもー! あたい、自分で切ったの……」
 諏訪の丸く開いた目が転がり、悦美の決まり悪そうな面持ちと、傷痕の付いた手首とを交互に見比べた。
「……リストカットしたのよっ!」
「やっぱりな……」
 諏訪が、太い腕を捻じ込み合わせるように組んで、折りたたみ椅子の背に大きくもたれ掛かった。途端に、椅子がギューギューと重そうな悲鳴を上げた。
“ハイっ! 手を組んで、手の平を上に向けて、真っ直ぐイッパイに伸ばしてーっ”
“うっ、ううー”
“肘を曲げないように! そのまま、左に倒すの、上半身を”
“異常に身体がカチカチだわ、あんちゃん……”
“ハイっ! 次は右へー。限界まで曲げるーっ”
“ヴー……、ヴヴー”

       ***

 エアコンをパワフルモードにすること相成らぬと、ドケチ・財部代表から沙汰の下知があった。諏訪のヤンキー時代を演じる雄介はじめ、暴走族・ブラッキーロイヤルのメンバー役、警官役、あるいは族の悪行の被害に遭う人たち、――みな、稽古のハナから動き詰めで汗みどろだ。彼らの体熱に押され、ここにいる大半の人間はエアコンの涼気など感じていない。もとより、演出に専念して、さほど激しく動いているわけでもない諏訪なのだが、彼のしたたらせる発汗量は内臓脂肪量に比例して断トツであった。
 ここは、少しみんなを休ませようと考えた諏訪は、
「おーい……」係の女の子に、
「……それ、廻してあげてー」コンビニで買って寄越させたペットボトルの緑茶などで、みんなの喉を潤させるように言った。
「ここから先はね、だいぶ、芝居の様子が変わってくるから。いよいよ、悪さの罰が、俺に、いや……若い頃のスワ先生に、当たり始めるんだな。……『そのうち本物のヤクザが絡んできて、知らず知らず、巧いこと操られるようになってしまった。下の連中が俺の指示に従わなくなって、ヤクザから直接――顎で使われるように状況が変わった。原因は、クスリだよ。ヤクザは、族の内部にアンフェタミンをばら撒くようになったんだ。これを捌けばカツアゲよりも金になった。しかも、ヤクザと結べば自分で好きなだけ稼げることが分かると、もう誰も俺の言うことなど聞かなくなったんだ』……実話なんだぜ、こういうところは全部……」
 稽古場は、いっとき静まり返った。
 和田堀公園一帯のミンミンゼミたちが全開で絶え間なく鳴き狂い、南側の大学・グラウンドからは、ラグビー部だろうか――、夏休み中の特訓と思しき練習の音風景が聞こえて見えている。コーチかOBか、あるいは先輩なのか、
“おーら、パスパスパスっ!”
“ヘイヘイ! こっちだこっち!”
“遅い遅いーっ!”
“うぃーっす”
“もっとだ。走れ。走れ走れっ!”
 それ行けやれ気合いだと地獄の叫び声が厳しい。締め切った窓をも容赦せず、明瞭に、それら盛夏酷暑の種々なる音響が透過して侵入している。
 諏訪は、一旦、息を継ぐと、絞るような口調で一同に説いた。
「……酷い話だったんですよ。違う、話じゃない。現実に起ったことだった。いま想うと、ゾッとするよ。恐いもの知らずの馬鹿は俺だけじゃなかったんだよね。ツッパリ続けて、恐怖心が麻痺していたから、本当に恐いものが何なのか、まるで分からなくなっていたんだね。クスリはメチャメチャ売れたらしい。来る日も来る日も、飛ぶように。だから、とんでもない稼ぎになった。中高生の子どもたちから、いい大人まで、大勢が夢中で嵌っていたんだ……」
 かぶりを大きく振った。
「あんな思いは二度としたくない。違う! させてはいけない。間違いを起こした俺が悪い。あー。悔やんでも悔やんでも……」
 諏訪は、うっすらと潤んだ瞳を隠そうとはしない。
「あー。……『やがて、クスリを密売した分け前を巡って、ヤクザと争いごとを起こす、気が荒くて欲の深い“とんがった”族仲間が登場し始めたんだ。恐いもの知らずが出しゃばって、ヤクザを警察に売るようなことをしでかした。喧嘩の相手にした勢力が、どれだけ悪辣だか、考えるだけの脳味噌が無かったんだ……バカヤロウどもが……。とうとう、ヤクザの復讐を喰らってな。向こうにしてみりゃ、人を一人殺すなんてことぐらい、屁でもなかったのに……。レディースの族メンバーが一人、何人かのヤクザに輪姦された上、クスリを致死量の倍近く射たれて、惨殺されてしまったんだ。たしか……、エツミって名の……、可愛い子だったよ』……とね、俺の台詞は、こう続くんだよ。実際は、芳子って女の子だったけど……な……」
 顔を苦々しく歪めて、大きく鼻息を吐き捨てた。
「……このことがあったんで、俺は観念して、族を離れる決心を付けたんです」
 諏訪が、そう語っていたさまは、一言一言が、あたかも毒の溜まった大量の膿を、痛みに耐えながら濾し出しているようだった。

       ***

“じゃ、次のストレッチー”
“まだやるのー?”
“立ったまま、足をクロスさせてーっ!”
 諏訪は、目を軽く閉じて聞いていた。
「あたいはね、自分の存在を消しちゃいたいと思ってる。いつもいつも……ね。……演劇が好きになったのは、そのお陰。お芝居していると、自分じゃない。だから。……リストカットはね、ときどきするの。大丈夫よ。深く切ったりしないから。カミソリでね、サッと浅く軽く切るだけ。……血がね、ポタッ、ポタッと落ちるとさ、その一滴一滴が、自分の中の汚くて悪いエッセンスみたいに思えてくるの。腐ってて嫌な自分が、ポタッ、ポタッと血が落ちるたんびに、一滴分ずつ、清められてゆく気持ちになるのよ。……死のうと思ったことだってあるよ。何回も……。だけど恐くてさ、自殺ってできない。あたいなんか、消えちゃえばいいんだけど、あたい、意気地無しだから、自分を消せないの。……けどさ、リストカットするとさ、血がポタッ、ポタッと流れて、あたいは生まれ変わるんだ……って、そう思える。だからするの……。それだけよ」
 ふっと目を開き、悦美を見た。悲しそうな顔をしているのかと思ったら、そうでもなかった。まるで童女のように純朴な笑み。知恵遅れのようにも錯覚した。
 諏訪は、
「じゃあ、どうして、そんなに自分を消したいのか、教えて貰えるかな?」と、心を鬼にして尋ねた。
 悦美は、躊躇なく答えた。
「あたいね……、レイプされたから……。中学のとき……」
(な……、なに?!)
 諏訪は、身体が凍り付いたように感じた。
「そうだったんだ……。ごめん。悪かったよ。そんな嫌なこと、訊いちゃって……」やり過ぎだったと思ったからだ。「……教えてくれて、ありがとうね」
 悦美は、一度左右に首を振り、
「誰にも言ったことないよ。あたい、いままで、聞いて貰える人もいなかったから」屈託のない朗らかな顔を一層ほころばせてから、
「……聞いてくれて、ありがと……」
 幼稚園児のような動作で、ちょこんと頭を下げた。
“前になった足に重心を置いてー。膝を伸ばしたまま、限界まで前屈ぅー”
“反動をつけちゃダーメっ”
“ゆっくり降ろしてーっ。……はい、クロスをチェーンジっ!”

       ***

 最初、諏訪が悦美に、ヤクザに輪姦された上、惨い殺されかたをするヤンキー女子高生を演って欲しいと告げたとき、彼女は少々、ムッとして黙り込んでしまった。
(いきなり殺される役なの? しかもレイプされてなんてひどくない? それ……)――と、抗議の目をして睨んでいた。
 しかし、幾度もリストカットを繰り返して自分を否定し続けているより、どうせ自分が、恐くて自殺などできない弱虫だと判っているのなら、
『芝居の最中に、幾らでも死ねばいいじゃないか!』と、非情に言い捨てた諏訪の挑発に、悦美としては、目から鱗が落ちる何かがあったようだ。
 演劇なら、何度でも死ねる――が、殺し文句だったとは。
 自殺など、我輩が訴えるまでもなく、絶対にいけない。自殺者の霊が浮かばれることは稀だからだ。自分を消したい強迫観念に苛まれてしまう悦美は、リストカットという疑似的自殺を体験することでどうにか人格を維持していた。だが、演劇で死に役に徹するとの方策を、諏訪からの酷な一言を浴びるまで、思い付くことがなかったようなのだ。
「ようっし! いいですかーっ!」諏訪が、一発気合いを入れて、稽古場の空気を引き締めた。
「さて! ちょっとな、内容的に危ないものを扱う場面になるんだよ。じゃ、そこの不良役……、きみときみ、それにきみだ。三人で悦美ちゃんに、むりやり注射を射つ芝居をしてくれ。二人が彼女を押さえ付ける。そうそう……。あら? んー? そうじゃない! 何だ! お前のその動き、それ注射してるとこかよ? めちゃめちゃ下手っぴーだなあ……。……しゃあない。そこだけ、あとで居残って特訓だ。……『レディースの族メンバーが一人、何人かのヤクザに輪姦された上、クスリを致死量の倍近く射たれて、惨殺されてしまったんだ。たしか……、エツミって名の……、可愛い子だったよ』……と、ここで俺の声が入るんだ。いいか? 要するに、かなりやばいクスリを致死量以上射たれちゃって、エツミという少女が殺されてしまう、危ないシーンなんだ……」
 諏訪にとって、重苦しい記憶の再現とも言える。
「……ホントはな……芳子って言う、小柄で可愛いらしい子だったんだ。……俺が殺したような……もんだ」終いは独り言だった。声が小さく消え入って、誰にも聞こえなかった。
「え? なーに? かなりやばいクスリって? あたい、そんなの知らないわー」悦美が、清々しく無邪気な笑顔を花咲かせている。
「かなりやばいクスリは、かなりやばいクスリなんだ!」知らないだけ幸せだぞ――と、諏訪は念じていた。
「ねー、……“ちしりょう”って死んじゃうのー?」
「どんなものでもね、身体に入れ過ぎると死ぬの。ご飯だって、限界を超えて、いつまでも食べ続けると死ぬんだぞ」
「えーっ! ご飯って、こわーい」真剣に怖がっている様子なので、
「アホかあっ! もう、しゃあないな……」呆れてはみたが、諦めることにした。
 精神的に発達障害を起こしているようにも見える悦美だが、ある種の障害を持っていることと、天才的な演劇の能力とが、表裏一体になっている例があると、我輩は聞いたことがある。諏訪も、そのように考えたようで、ときおり妙に幼さを露わにする悦美のキャラクターを、可能な限り積極的に認めようと努めていた。
「……さあ、クスリを射たれたエツミが、苦しんで死ぬ……、演ってみな……」
 三人の不良役は、手分けして薬物注射殺人を犯す仕草を、酷く不器用に演じた。――が、突然、悦美が胸をもがいて苦しみだし、喉を掻きむしり、頭を抱えてのたうち回り、七転八倒の末、悶絶のうちに息を引き取るアクションに圧倒されるまま、結果的に、諏訪が指示した演出の通り、呆然として彼女の一連の演技を見届け、それから慌てて逃げ出す芝居を演り遂げる流れとなった。
「オーケー、凄いよ。悦美ちゃん、それでいい。さすがは……」なるほど、たしかに悦美の天才が発揮されたのだ。
「さすがは、なーに?」
 つい、うっかり、
“さすがはリストカッター”と言いそうになったのを、グイッと呑み込んだまでは冴えていたが、
「……さ、さすがは、お……、女ガチムチだ!」
「えー、失礼よ、それー。どゆことよー」
 何のことはない。やはり、言わないほうが良いことを言ってしまった。

       ***

 エツミの通夜の場面になった。実際の葬儀なら棺の中で横たわっている筈のエツミは、芝居だから、死に装束に身を包み、舞台の中央奥で姿を晒して横になる。神妙な顔をした参列者が数名いて、そのうちの一人が、雄介演じる、若き不良時代のスワ先生である。
 諏訪のナレーションが入った。
『葬式のとき、その死んだエツミの両親が眼の周りを真っ赤に腫れ上がらせてな。祭壇に向かって謝り続けていた。何遍も何遍も』
 タイミングを計り、エツミの父母を演じる男女二人の劇団員が、
『ごめんよ、エツミ……。許してくれ。ああ……、ごめんな、ごめんなあ……』激しく取り乱した演技をし、
『くくくっ……、ううー、うううっ……』全身をよじるようにして、哀れみを誘う嗚咽を漏らした。
 すると、またもやここで、――出たのである。
{なあ、……こういう演出を紋切り型って言うんじゃないのか?}
 幽霊は、姿を現わさずに、声だけ諏訪の耳元で囁いたのだ。
{固定観念……とも言うか?}
「うわあーっ! ……」反射的にびっくり、そして仰天して怯え震えた大声が出てしまうのは、人間誰しもやむを得ないことだ。
 諏訪は、あたふたと周囲240度ほどを見回し、いつも幽霊が出現する窓のほうを見遣ったものの、このときはどこにも姿がなかった。一気に凍結させられてしまいそうな強烈な冷感が、身体じゅうに纏わり付いた。役者たちが、不思議そうに首を傾げると、
「どうしちゃったの?」雄介が、舞台のほうから心配そうに声を掛けた。
 舞台を見渡せる――演出の立ち位置から、諏訪は、顔面筋肉を微妙に操って変化させ、雄介だけに向け、密かに例の幽霊の存在をアピールした。しかし、
{余計なことしなくてもいいよ、ベイビー。雄介にも、いま気付かせるから}
 幽霊が諏訪にそう告げると、途端に雄介の顔付きが悪戯坊主のように明るくなった。幽霊が来てくれたと、嬉し愉しい気持ちになったのだ。
{稽古中に姿を見せたら、演りにくいんだろ? 雄介にも声だけしか聞こえてないよ。こっちも気を遣ってるんだぜ}
 他の役者たちが不審がるのを恐れ、
「……ああーっと、そうだった!」諏訪は、ここを懸命に取り繕おうとしたのだが、
「両親役の二人――、眼の周りを真っ赤に腫れ上がらせておくようにね。メーキャップで、巧く仕込んでおくこと……」と、衣裳さえ決めていない――この稽古段階で指示するべきでもないことを口走り、かえって役者たちが訝しげな面構えになった。
{葬式では、あまり泣かないほうがいい。死んだほうとしては、泣かれると成仏できなくなるんだ――ボクみたいに}
 諏訪は、耳元の幽霊の言葉を無視して、稽古を続けた。
「はい、ごめんなさい。……えー、エツミの父母が泣き崩れているところで……と、よし、次のナレーションです。……『そして、エツミのお母さんがひどく悲しそうで落ち込んだ顔して、だけど穏やかな優しい口調で、俺に言ったんだ』……、ここで、エツミの母役が、こういう内容を少年時代のスワに向かって話します。いいっすか、――あの子と、最期まで一緒にいてくれて……、私たちが見捨てた……、あの子の面倒を……。見て下さって……」
 エツミの母役は、
『あの子と……、亡くなるまで一緒にいて下さって……。私たちが見捨てた――あの子の面倒をみて下さって、本当に、ほんとうに……、ありがとう……、ございました……』諏訪が口立てしたあとに続いて、丁寧に同じ台詞をリピートした。
「そう! いいよねえ、いまの感じ……。でも、心情的にはさー、きっと、もっと複雑だね。心からスワ少年に感謝してるわけじゃあない。族に誘い込まれたことを恨んでいるかも知れない。しかし、親たちのほうだって、グレて手に負えなくなった我が娘を放ったらかしにした。スワ少年たちに世話になっていた……、そのことも、また事実だ」
 ところで、幽霊は、しつこかった。
{ねえー。ボクも芝居に出して下さいよ。劇団鰻登の低迷した人気も、ボクを使えば、いきなし天井知らずの鰻登りになるって}
「何を言ってんだ!」苛ついた諏訪が、うっかり大きな声に出して幽霊の我が儘を断った。
 舞台に乗っていた役者たちが、再び怪訝な顔になって睨んだ。
「……という風にね、えー……、少年・スワが心の中で想いを爆発させるのが、この間合いだぞーっ! いいかー、雄介?」今度は、さきほどより巧く誤魔化した筈が、
「えへ?」雄介が、笑いを噛み殺している。
「えへ……じゃなくて! いいか? 正座したまま、膝の上で拳を握って悩むんだぞ。俯いて泣きそうになれ。……『俺は、そのとき何も応えられなかった。でも、頭の中では――それ、絶対に違うよ、おばさん――って、叫び続けていた』……こう俺が、このシーンに被せて、ナレーションを入れるからな。それから、『俺は決して、エツミの両親に感謝される立場じゃなかったもの。そうだろ?』……と繋がる。いいか? そのあいだ、泣くのを堪える芝居だ。解ったか?」諏訪のほうこそ、泣きそうな顔になっていた。
 なぜかと言えば、
{ボクを出演させてくれないんなら、諏訪さん……、あんたの真実を雄介たちにバラしちゃうぞー。これでもか? ……}と、幽霊が半分――脅しに掛かってきたからだった。
(なあー、ちょいと待ちーな。現実問題として、幽霊を芝居に出せるわけがないっしょ? 俺は、ふざけてそう言っただけ。それに、この相談さ、できたら稽古のあとにして貰えないもんかね?)幽霊が発する冷たい気感によって、諏訪は、全身が凍傷になりそうなぐらいに凍えているのだが、実際は、大きな肉体から猛烈に吹き出した汗が、ポタポタと板床へ滴り落ちている。
{出演者たちの心に固くこびり付いている垢を、互いに露わにして掃除することで、観客の心へ真っ直ぐ届く舞台を作る――、そうじゃなかったの? 今度の芝居のコンセプトって……}
 この幽霊は、諏訪の想いをピタリと透視していた。
 雄介が、諏訪に応えて、
「はーい、解りましたー。……じゃ、オレってさ、ここまで全然、ズーッと台詞無しじゃん。ラッキー! すげー、らくー!」高校生らしい活発さで飛び跳ねている。財部に連れられてきた当初と比べると、かなり人当たりも良くなった。
{雄介が、本当に悩み苦しんでいる源、――あの若い心の奥底に潜んだ塊を取り去ってあげないと、あんな明るさも、いっときのことで終わってしまうよ。いまはいいだろう。でも、この芝居が終わったら、どうなると思う?}
「ど……、どうなるって、どうしたらいいんだ?」言葉が、諏訪の口を突いて出てしまった。
{な? 手を貸して欲しくなっただろ?}
「ゆ……、幽霊になんぞ……無理だ。洒落にもならない」
{自分らしくあれ――だよ。雄介にも、諏訪さん……、あんた自身にも、そう言ってあげないと……ね}
「幽霊の分際で……。何の話だか、さっぱりだな!」
 そう言って、諏訪が窓の外へ視線の先を転じると、素っ裸の真っ白マッチョマンがにわかに顕現し、弓矢を射るポーズをバランス良く決めながら、
{オ・リ・ン・ピ・アー!}と一度、雄々しく吠えて、すぐさま消えていった。これもまた、スウッと。
 雄介だけは、小声でクスクスと笑っている。だが、他の劇団員やエキストラたちは、困惑の体で立ち尽くした。それもそうで、諏訪が、まるで頭がどうかしてしまったかのように、誰もいない空中に向かって会話していたからだった。
 ここまで、どうにか堪えて稽古を見詰めていた財部が、
「諏訪くん! オイテメー! こないだ奢った鰻重は何のためだったのか、お忘れなんかね? ……」遂に、血流を沸騰させ掛かっていた。
「……きみたちと幽霊との関係を、稽古や芝居に持ち込むなと、あれほど頼んだというのにっ!」いよいよ、首筋を真っ赤に染めて、怒り大爆発を起こすかと想われた。
 すると、この日は珍しく稽古の様子を見に来ていた松坂陽子が、
「あああっ! アタシっ、幽霊は大っ嫌い! 例の噂って、本当だったということなのっ? あー、イヤだわー、もーっ! アタシ、今度の舞台、キャンセルしたくなってきたわー」ヒステリックに叫び始めた。慌てた財部が、
「それは困るよー、松坂くーん、くーん! 幽霊なんて、うそうそ、――大嘘だからさー、そんなこと……」猫なで声で懸命に松坂をなだめ、
「……だって、誰も見ていないんだろうが? ん? 幽霊の話をするのは、雄介と諏訪くんだけだがね。示し合わせて、悪い冗談を言っているのだよう。松坂くーん。そうなのだよう。――なっ、そうだなっ! 諏訪くん! そうだろうがっ! コラテメー! 訊いているんだから、返事をしろっ!」どうにか場を収束させようとしているのだろうけれども、かえってジタバタと、落ち着かなく右往左往するだけだ。
 その他・大勢役――を受け持つ劇団員とエキストラ役者たちは、なお一層、わけが分からなくなって、ただただ唖然として佇むだけだった。

  ◆幽霊香盤表<第7幕>へ、つづく◆

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