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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ小説】 幽霊香盤表 第9幕 (全17幕)

<<   作成日時 : 2008/04/16 10:27   >>

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  ◆◆幽霊香盤表<第8幕>からの、つづき◆◆

 新入団員の一人、前畑という美青年が日影ビル三階の稽古場を訪れるのは、これで二度目となる筈だったので、諏訪は、直接来てくれるようにと告げてあった。午後八時にとの約束だったのに、そろそろ八時半になる頃合いだ。
(どっしたのかなー? 道に迷ったかー?)遅刻するならするで全く構わないのだが、前畑のことを、きちんと連絡を寄越す常識すら無いような人間だとは、最初から思いたくなかった。
 テーブルの上、右半分に今度演る芝居の香盤表を拡げ、残りの半分に、前畑の身上書を置いて、見比べている。
(綺麗な文字を書くよね)
 29歳で独身。派遣社員として、実にいろいろな職種を転々としている。営業系では、マンション販売、文房具店の外回り、コーヒーメーカーのルートセールスなど。チェーン展開しているイタリア料理店の厨房で働いたこともあるようだし、道路工事を見張るガードマンもやっている。家庭教師斡旋センターの電話番とか、電話会社のコールセンターとか、それに、ケータイの街頭宣伝スタッフと、妙に電話関係が連なっている。私立幼稚園の事務員を半年、弁当会社でも事務を半年やっている。意外に長く勤めたのは看板制作の工場内作業で、二年半に及んでいる。
(芝居っけは無し……)
 しかし、どうして、この男が劇団鰻登に入ろうと思ったのか、諏訪にとって、その動機は謎であった。さまざまな勤労経歴からは、まったく演劇との関連が思い浮かばない。どれぐらい、芝居への意気込みがあるのかも分からなかった。
(年齢からして、教官役を演って貰うことになるんだが……)
 体格は、身長がおよそ175センチほどで、立端のほうはまあまあだが、何しろスタイルがとても良いのだ。頭の大きさ、顔の形、首の長さと太さ、胴体と脚、腰の位置、尻の上がり具合い、腿と臑のバランス――。各パーツが、理想的なプロポーション――構成比で備わっている。また、体型全体の流線が見事である。書類には、合気道をやっていたと書かれているのだが、スポーツマンであるとのことは、すでに一度顔を合わせたとき、彼の立ち居振る舞いを見て、その身のこなしの軽やかさから、すぐに判別できていた。役者に運動神経は必須だ。もはや、酒樽のようなラード体になってしまった諏訪は、運動能力の劣化が著しい。斯様な実状となってこそ、余計に、前畑のような肉体に強烈な憧れを抱くのである。要するに、アスリートには滅法弱い。とくに、そのボディーに。
 諏訪は、身上書に貼付された前畑の正面写真を凝視しながら、
(少年院の教官に、口髭はどうだろうかな?)首を傾げて思案していた。
 前畑は、少年のような顔立ちなのにサッパリした口髭を蓄えている。あたかも、トム・オヴ・フィンランドが描いた挿絵を想わせてくれる。役作りの上からは、ことによると無いほうがベターとも想えるのだが、実際、彼の口髭は良く似合っていた。前畑のような美しい青年は、何を試みてもさまになる。我輩の感覚でも、29歳で口髭は、ちょっと早いようにも感じるものの、そこにこそ――、諏訪としては、ゲイという本能に起因する淡く密やかな期待感を寄せてしまうようだ。日本人の場合、一般的に、若作りの美青年が敢えて口髭を蓄えるのには、相当の事情があるものだ。場合によっては、可能性――たったの6%ほど、乃至はそれ以下なのだが、
(こいつ、ゲイなのかも)
 ――との期待ができた。諏訪の抱く淡く密やかな期待感とは、つまり、そのことであった。
(こんな夜に、イケちゃう男と二人だけ……。べつに狙ったわけじゃないさ。喰っちゃうつもりなら、はなから、こんな不粋なとこには誘わないだろって)
 ――ミシ……、ミシリ、ミシッ……
 階段を登り切った足音が聞こえ、
 ――トン、トントントン
 明瞭なノックの音がした。前畑が、稽古場の木戸を叩いたのに違いない。
「あ! はいー。開いてますから、入ってー!」
(どんな恰好して来たのかな? ショートパンツから、えれえ猥褻な脚――、覗いてたもんな、こないだ、初めて会ったときさー)
 滅多に緊張しない諏訪が、この晩に限って、そわそわしている。どうやら、このような感情は久しぶりのようだ。時代環境も、だいぶ変化してきて、隠し通さなければならないこともないのに、せっかく掴んだ演劇人としての成功を、いまさら手放すことはできないと守勢に入っている。やはりまだ、不安があった。白状するのは、決してなま易しいことではなかろうと弱気なのだ。だから、四十五にもなって、恋人の一人さえ、作ることができないでいる。
 ――トントン……トン
 また、ノックの音がしている。
「どうぞー! 前畑くんでしょー? 入って下さいなー。ドア、開いていまーすー!」これだけでかい声で応対しているのだがら、木戸の向こうで聞こえない筈がない。
(えーっ? どうしたのかなあ? 恥ずかしがって、遠慮してるわけー? まさかね……)
 壁の時計を見上げた。二本の針は、八時四十分を差している。
「お入り下さーい!」ドアに向かって大声を出した。
 すると、
 ――ドン、ドン、ドン!
 諏訪の声を遮るように、叩き壊されんばかりにドアがしなった。
「ちょっとー、聞こえてないわけないでしょーに? 前畑くん、入って下さい! いったいそこで何をやっているの!」
 軽めに舌打ちを鳴らした諏訪は、椅子を弾き飛ばすように立ち上がると、ツカツカと木戸に歩み寄って、
(こらこらこら! ドアを開けてみたら、あら・ビックリでさ、前畑くんが素っ裸でおっ立ってたりなんかしたら、最高に燃えちゃうんだろうけどなあー)
「ほらっ! こうすりゃドアは開くんだってばさ!」力任せに摩耗した真鍮の取っ手を引っ張ると、
「わあっ! ……何?」
 そこには誰もいなかったのだが、
{おーら! 駄目でしょ、諏訪さん。淫らなことを妄想してばっかしじゃ、いけませんよ。仕事、仕事!}タイミング良く、図ったように、幽霊殿の声だけが諏訪の脳内でゴウゴウと轟いた。
「ヒイイッ!」さすがに、この演出には諏訪も大いに驚かされた。
 ――プルルルル
 次の瞬間、諏訪のケータイが鳴った。
 即座に反応した手が腰のホールダーへと伸び、指が受話ボタンを押すと、
「も、もしもし……」声が勝手に震えた。
 油断していたのだろう。今夜の幽霊に限って、ずいぶんと恐ろしく感じたのである。
〈どうも、すみませーん。前畑でーす。めっちゃ遅れちゃって、ごめんなさーい。いまですねー、西永福の駅でですねー、もうすぐ着きますからー……。もしもーし? 聞こえてますー?〉スポーツマン美青年に相応しい爽快な声が、ケータイの中から聞こえる。
「………………」
〈もしもしー。……あれ? 諏訪さんでしょ? 諏訪さんっすよねー? もしもーしー……。あれ?〉
「………………」

       ***

 ユウスケ少年は、スワ先生が自らの行動で示した「落書き消し」の熱意に打たれ、率先して悪かった素行を改めた。家にも帰るようになった。酷かった家庭内暴力が収まった。病気を患っているおばあちゃんを労り、家族と、ごく普通に話をするようになった。商店街・ウチダ商工組合理事長のところへも謝罪に赴き、ヤンキー仲間たちが、かつて起こした万引きや置き引きなど、数々の非行――、それらの落とし前を付けていたのだ。
 場面は、いよいよ、諏訪が実際に収容された少年院での体験を元に構成される回想場面となる。芝居は、スワ先生の実体験として、少年院での辛らい想い出が、切々とユウスケに語られているとの設定になっている。
「それでは、次いきますね。ごめんごめん。お待たせー。やっと前畑くんの出番になりました。どういう役柄かは、これまで散々稽古の中で話してきたから、それ以上の説明はもう要らないと思いますが、おさらいすると……」演出担当・諏訪の口当たりが柔らかい。笑みを絶やさずに優しい。
 稽古場の片隅で、松坂陽子が代表の財部に、
「ちょっと。どういうことなのかしらね?」こそこそと話し掛けていた。右手で、ソフトクリーム・ストロベリーのコーン部分を、しっかりと握っている。
「何がだい?」財部の声質も、松坂に対しては妙に柔らかい。
「どう見てもさーあ、あの超・新前にだけは優しいでしょうよ、諏訪ちゃんって」
「そうかなあ?」
「だいたいね、アタシは雄介って子の下手くそな芝居にもイライラし通しなのよっ! ド素人ばっかり使って、それも語りとパントマイムで誤魔化そうみたいな。ボロ隠し丸出しじゃないのよっ!」ソフトクリームを握り潰しそうな剣幕だ。
「すまんな、雄介のことは……」
「んーんー。藤六ちゃんのことを責めてるんじゃないのようー。気に入らないのは諏訪ちゃんよっ! 見てよ、このアタシ。アタシってさー、出番待ちばっかりじゃないよ? ふざけないで欲しいわ。天才女優をつかまえて、この失礼な扱いは何よっ!」
「おれから、あとで釘を刺しておくよ。もう少し、我慢してくれ、……な。頼むよ、……陽子」甘ったるい声が、履いているネズミ色の小汚いサンダルと、完全なるミスマッチになっている。
「あああっ! もう、イライラするわ。あの甘ったるい声!」ソフトクリームが松坂の手元から溶け出し、稽古場の板床に、ピンク色の滴をポタポタと落としている。
「ごめんよ。もう甘ったるくしない……」
「違うのよ違うの。藤六ちゃんのことじゃないのようー。……どうして、諏訪ちゃん、あの前畑とかいう男にだけは、あんなにアマアマな声で指導するのかしらねっ!」ソフトクリームが、どろどろになってきたのに気付き、慌てて大口を開けた。鼻毛が丸見えになっていた。
 ようやく、ソフトクリームにむしゃぶり付いてくれたお陰で静かになったが、松坂のオカンムリは、当分のあいだ、収まりそうになかった。
 前畑は、稽古舞台の下手側に立ち、上手に雄介がいた。場面設定は少年院の中で、周囲に立ち並ぶ――その他・大勢さんたちは、この少年院に収容されている他の少年たちを演じている。
「前畑くんは、教官ですよね。どこからどう見ても口髭を生やした厳つい鬼教官。――なんだけれども、本当はそんなに鬼じゃないんです。表向きだけ、厳しいのね。収容されている少年たちを立派に更生させようと、使命感を抱いています。そうでしたよね?」諏訪の指導は、あくまで優しく丁寧だ。それもそうで、諏訪は、久しぶりに発見した――好みのタイプ、そのターゲット中心点に位置する美青年と、まさしく間近で接しているからこそであった。
「なるほどなあ。はい! そうですね、少年院の教官! これだなあ!」前畑は、しみじみと応え、爽やかな表情を見せた。
「これだなあ……って?」諏訪は、物珍しそうな面構えになった。
「はいーっ! いままで、僕はですね、派遣社員斡旋会社に登録して、いろいろな仕事を経験したんです。でも、なかなか、“これだっ!”――っと実感できる仕事がなくってですね、八方ふさがりになってしまいました。あるとき、ふと……ですね、そうだっ! 演劇をやれば、僕に適した職業のことで何か発見できるかもと思い付いて、ダメモトでこちらの劇団鰻登へ応募してみたら一発で採用されちゃって、嘘みたいなことに、早速ですね、適職のヒントまで見付かっちゃったんです」
「すると、前畑くんは、うちの劇団で芝居をやることで、自分がこれから生きる道を見付けようとしたの……?」
「ハイ! どんな配役だろうと、演じてみることで、その人になり切りますよね? 役の上で、どんな仕事をしているのかイメージすれば、ああ、これなら実生活でいけそうだとか、やっぱしこれ違うとか、判断材料になると想ってですね……」普段の喋りなのか、台詞回しなのか、区別が付かなくなるようなクリアーな滑舌だった。一貫して清々しいキャラクターを感じさせている。
 これでまた、諏訪は、ますます前畑のことが好きになってしまったわけである。ときどき、前畑が露わにしているスポーティーな生脚にチラチラと視線を落としている。膝から下――臑の曲線が最高この上なしの、お気に入りだと想われる。
 片隅で、松坂が財部に、
「んまっ! 前畑っていう人、素人のくせして生意気なこと言うわねっ! 芝・居・こ・そ・が、ろくにできないくせしてっ! 何が……“演じることで、その人になり切る”なのよっ! いやーね、腹が立つわーっ。それじゃ、アレなのかしら? この劇団を踏み台にして、素晴らしい職業発掘に結び付けるとでも言うわけなの? イイカゲンにして欲しいわね、まったく!」とても耳打ちにならないような声量で悪態を吐いていた。
「そんなこと、想うほど簡単に行くわけがないわな」財部が、露骨に呆れた苦笑いをしながら首を横に振っていた。
 諏訪は、惚れた男――前畑青年に関しては、どのようなことでもプラス思考で認識しようと、
「かなり風変わりだけど、ま……、芝居に入門するのって、理由はさまざまなんだなあ……」盛んに肯定的な頷きを見せた。感心したようなさまだ。恋をすると何事も贔屓目になると言われるが、本当なのである。
 我輩としては、松坂の意見に賛成で、芝居という虚構から現実の職種を見定めることなど、きっと無理だと感じる。
 諏訪は、気分を変えるためか、一度、大きく深呼吸をし、
「……さ、それじゃ、その配役をまず実践しよう。教官登場の場面から小返ししますね。つっかえたら何回でもリピートしますから、台詞のモニターから目を外して、そろそろ覚えて演るように努めて下さいねー」と促した。
「ハイッ!」
「雄介くんも、いいかな?」
「うぃーす!」

       ***

 スワ先生の声でナレーションが流れる。
『来る日も来る日も地獄だったよ……少年院というところはな』
 舞台中央、下手の側に、制帽・制服姿の鬼教官がドンと仁王立ちになり、腰に手を当てて難しい顔をしている。上手に、くりくり坊主頭を晒した少年時代のスワが、極端に地味色な作業服に身を包んで立っていて、揃いの衣裳を着けてスワ少年を取り囲んでいる他の収容少年たちと一緒に、体育の修練をしようという様子だ。スワ先生の語りが続く。
『俺が、こないだまでブラッキーロイヤルでカシラを張ってたなんて、まるで関係がなかった。むしろ、そんな権力者だったことが、かえって、あの世界では俺に対する風当たりを強くしたんだ。教官は徹底的に俺のプライドを貶めるような仕打ちを繰り返した。良いやりかただとは思えなかったが、そうするのが更生のため一番早道だと考えたんだろうな。俺のためを思ってのことだったんだよ』
 スワ少年だけ、いきなり前に出された。真っ黒に日焼けした素顔はそのままだが、もはや、鼻にピアスなど付いていない。
『スワっ! ここでバック転、やってみろ』
『え? バック転、……ここで……っすか?』
『そうだ。ここで、やってみろ』
『やったことないっす』
『そんなことは、いちいち知らない。私は、スワにバック転をやってみろと命じたのだ』
 教官の口調は、機械的で冷たい。
 周りの少年たちが、クスクス笑いをしている。スワ少年は、言われた通りにしようと思いはするが、床はコンクリートのようだ。マットも何も敷いていない。もちろん恐いから、いつまでも躊躇ってモジモジとしている。
『どうした? 早くやれ』
『ま……、待って下さい……』
『みんな、さっきから待っているんだ。……早くやらないと、みんなをズウッと待たせることになるんだが!』
 他の少年たちから――、
“なんだよ、はやくしろよ”
“待つのはイヤなんだよ”
“なめんなよ、こんにゃろうーっ!”
 ――プレッシャーが掛かっている。
 すると、
『こうやって、やるんだよ、オラ!』
 一人の少年がツカツカと前へ出てきて、いきなり見事にバック転を決めてしまった。一同から拍手と歓声が上がる。
『さあ、スワ。いまみたいにやってみろ!』
 追い詰められたスワ少年は、覚悟を決めてバック転にトライするが、頭からコンクリートの床へ叩き付けられるように転倒してしまった。痛そうに頭を押さえ、よろよろと立ち上がった。少年たちから、嘲笑や落胆の声が上がる。
『できるまでだ。何度でもやれ!』
 もう一度、トライするが、やはり酷く失敗してしまった。少年たちの嘲りと怒声。教官は、冷たい鉄仮面のまま、ただ口髭を弄び、黙ってスワ少年の挑戦を眺めている。
『床面は、コンクリートが剥き出し。マットなんか敷いてない。バック転ができるまで、これが何時間でも続くんだ。頭から落ちて血が出ても知らん振りだった』
 ――と、舞台にナレーションが被さった。

       ***

 諏訪は、前畑のすぐ脇に立って、
「ああ、そこは、一言追加しとかないと変だな。もうちょっと暗い声でね、……『そんなことは、いちいち知らない』……と、喋ってみようか」台詞を叩き込む。肩に手を添える。
『そんなことは、いちいち知らない』
「ごめん。暗い声やめにして、硬い声にしよう。はい……」
『そんなことは、いちいち、知らない』
「オッケ。そんな感じで。次ね、……『わたしは、スワにバック転をやってみろと命じたのだ』……はい」
『私はスワにバック転をやってみろと命じたのだ』
「んー……。滑舌の稽古しておいてね」
「ハイ! 早口言葉の練習ですね?」
「……じゃなくて、北原白秋の“あめんぼ”を繰り返し読んで練習しておいて下さい――ほら、五十音の歌ね……『あめんぼ赤いな、アイウエオ』……ってやつ。……いい?」
「あ、はい」
「さっきの喋りだと早過ぎるから、何を言ったか判らない。はい、もう一度、落ち着いて、硬い話しかた……『わたしは……』……」
『私は、スワに、バック転を……えーと……』
「分らなくなったら、モニターを見ていいから。……ほら、もういまの台詞が打ち出されているでしょ?」
「は……い」
「やってー」
『私は、スワに、バック転をやってみろと言ったのだ』
「ちゃう、……『命じたのだ』……」
『あ、命じたのだ』
「頭からです!」
『私は、スワに、バック転をやってみろと、命じたのだ』
 前畑への口立て稽古は、段々と良い調子にテンポを上げていた。

       ***

 少年院の生活――。夕食のあと、午後九時半に全室半消灯するまでの僅かなあいだ、収容者たちには自由な時間が与えられていた。大学入試検定などの通信教育や資格取得の講座、漢字の勉強、英会話、――この時間を使って、熱心に自主学習をする真面目な収容少年たちもあったが、とりわけ新入りたちにとって、この時間帯は当面、試練忍耐に費やされることと決まっていた。午後十時には全消灯されて、就寝時間となった。
 スワ先生が語る。
『生活棟では、五人単位で一部屋が割り当てられた。俺より先に入っていた奴らが、当然、威張っていたのだが、どの部屋にもちゃんと仕切り専門のボスがいた。さしずめ、牢名主ってとこだ。江戸時代の牢獄なんかと、何も変わらない』
 三人の少年たちはアグラをかいて座り、一番偉そうに振る舞っている一人が、正座してかしこまるスワ少年の傍らに擦り寄るようにして、
『フッ! ……』薄ら笑いを浮かべる。
『……おい。スワ。……悪いんだけど、この畳の目の数を全部数えてくれないかな。オレっさー、畳――一畳の目の数がいくつだか、すげえ知りてえんだよねー』
 理不尽な難癖を付ける部屋ボスの台詞に合わせて、残りの三人がへらへらと笑った。
 スワ少年は、瞬間、悔しそうに下唇を噛むが、逆らうことはできないと観念し、正座をちょっと崩してから這いつくばって、意地でも数えてやろうと真顔になった。すると、
『この野郎! 正座が基本じゃねえのかよ!』周りの一人が、スワ少年の坊主頭に生えた短髪をむしるように掴んで、むりやり持ち上げようとした。
 つまり、態度が悪いと、追い討ちを掛けて虐められたのだ。ついでに何発か頬を殴られてから足蹴にもされた。惨い光景である。スワ少年は、それでもめげず、従順に、怒りをグッと堪えて、黙々と無意味な作業を続けた。
 しばらく経ち、畳の目を数えたカウントが、ある程度進んだところで、
『おっとっとっとー。あらら、よろけちゃったよ、ごめんねー』
 一人、部屋の中をうろうろと歩き回っていたボスが、わざとスワ少年を押し倒して邪魔をした。残りの三人が、揃って頭が悪そうな奇声を発して大喜びをした。
 スワ少年は、ボスを睨むことすら必死で我慢し、黙然と、また一から畳の目を数え始めるのだが、しばらくすると、
『おっとっとー……』また同じことを繰り返された。
 どこまで数えたか分からなくなる。気感の腐った――部屋ボスそして残り三人の嗤いがスワ少年の心臓をえぐる。幾度も幾度も、初めから数え直しをさせられていた。
 芝居が、次第にシルエットになるのに被せて、
『全身が、屈辱感で震えた。憎しみと情けなさとで気が狂いそうだった。それでも、俺は必死で耐えたんだ』スワ先生のナレーションが流れて入ってくる。
『そうだ、一年のあいだ、俺は耐えたんだ。どんなイジメにも、決して刃向かうことは、しでかさなかった。一切、何も問題を起こすことも無く』
 いっときの暗転のうちに、部屋ボスら少年たちがハケてから、次に真上からライトをピンで抜いたときには、――その照明の中、舞台のセンターで、スワ少年と教官だけが向かい合っていた。
『スワ……』
『はい』
『お前も、本当に良く、辛抱したもんだ……』教官の口調は、別人のような柔らかさに変わっていた。
 スワ少年は、何も応えられずに、俯いていた。
『お前が、ここへ入ってきたときには、札付きの超・ワルだと事前に報告を受けていたから、初めから、さぞ手を焼くことだろうと覚悟をしていたのだが……、私は驚いている。すっかり見直したよ。降参だ……』教官が、それまで掛けたことのなかった優しい言葉を告げたので、
『…………』
 スワ少年は、込み上げてくるものを抑えるのが精一杯だった。
『スワ。お前は、悪い人間なんかじゃないんだな……もともとは。私には、それがハッキリと判った。もう、心配することはないぞ。これから先、どんなレッテルが貼られようとも、お前は決して負けない。だが、ときに負けそうになっても構うことはない。そういうときは、こっそり私の顔を思い出してくれ。私は、誰よりも、本当のスワの心が解っている……』
『は……はい……』
『……んん? それは言い過ぎだったか? お前の心の、せいぜい半分ぐらいが、いいとこか? ん? ……』そう言って、教官は高らかに笑い声を上げた。
『はい……、いえ……』
『アハハハハ!』
 スワ先生の声で、ナレーションが入った。
『鬼教官が仏になって、俺の二年の送致期間が一年に、短縮されたってことだった』

       ***

「……と、ここでもって、前畑くんが演じる鬼教官が、明るく高らかに笑う、その笑い声に乗っけて、……『鬼教官が仏になって、俺の二年の送致期間が一年に、短縮されたってことだった』……と、俺が語りを入れるわけ。ここで、この場面が途切れます。……で次へ。……分かりましたか? だいぶ上手くなりましたよねー、前畑くんも。意外に素質があるみたいね、滑舌さえ特訓して貰えれば……」諏訪が、長年使い古したサイコロのような、丸いのに四角い顔で、ニヤリとして見せた。
 すると、前畑は突然、神妙な面持ちになって、セクシーな口髭をモゾモゾと擦りながら恐縮し始めた。
「えとー、僕はですね……、あ……、いいですか、ちょっとお話しても?」
 胸に痞えていたものを吐き出したいのだ――と言った。
「え? ああ、いいよ。どうぞ、話してみて……」
 諏訪の一言で、稽古場にスタンバっていた一同がフッと緊張を解いた。三々五々――それぞれに一息入れようと、一旦、集中力の緩んだ空気が流動し始めた。その空気を察し、
「……じゃあ、休憩にします。ちょっと一服タイムねー。十五分だけーっ!」諏訪が、大きな声で宣するや、
“暑い暑い! エアコン効かねーなー、ここ……”
“公園行って、池で泳ごうっか!”
“物好きだな。ボウフラどもと一緒にかよっ?”
 みんなは次々と、稽古場の木戸をバタンバタンと鳴らして、稽古場からハケて行った。
 前畑は、諏訪の前で折りたたみ椅子に腰を下ろすと、静かに話し出した。
「小学校のときはですね、僕――実は、イジメたほうの側だったんです。イジメたと言っても、おかしな話なんです。クラスのみんなが、僕からすると勝手に……なのですが、僕のどんな命令にも従うようになってしまって、……ね、変でしょ? 僕は、クラスに独裁体制なんて敷くつもりじゃなかったのに。運動会で誰よりも活躍したとか、六年間通してリレーの選手でですね、目立っていたことは目立っていました。仕方ないですよね、それ、走ったら速かったんですから……」
 諏訪は、手が届くような直近の眼前で組み合わさっている前畑の二本の素脚とその長く湾曲したラインと――、スジ筋系アスリート特有の、腿の裏、ふくらはぎ、膝の周辺に筋肉が活き活きと装着されたさま――、それら表面に健康そうな血管が浮き立って這い、さらにその内部、骨格の凹凸がキチンと組み上がっていて明瞭に見定めることができ、一連の流れ、美麗なるが上に扇情的な景色――、こうした全てを、陶酔し、恍惚として眺めながら、彼の話に、外見上は、ゆったりと耳を傾けていた。
「……スポーツはですね、自然に何でもできちゃって、州の体育大会・小学生高学年の部ではですね、陸上、短距離走100メートルと、400メートルでも優勝しちゃいました。水泳でもですね。200メーター個人メドレー……金メダル……」
(くーっ! 憧れちゃうよなー、そういう男にーっ!)
 諏訪の脳下垂体は沸騰し、このとき欲情の坩堝と化していた。
「……そしたらですね、何だか、クラスのみんなが、僕のことを王様みたいに持ち上げてですね、向こうから絶対服従するようになって……、いえ……、その当時の僕には、そう感じられたんですね。あとになって、前畑のクラスは独裁学級だったって言われました。僕がですね、威張って権力者になって、それでイジメの旗振り役をやっていた……って。……それで、いよいよ六年生の三学期も最後になってですね、もうすぐ卒業ということで、卒業式の準備とか、やってる頃だったなあ。急にですね、僕がクラス全員に呼び出されて。……学校の近くの神社でしたね。……卒業だから、これまでの借りを返す――とか言っちゃって、みんなでですね、僕が以前、あのとき、ああした、このとき、こうしたって、いろいろ僕の罪状を捲し立てて……。一人一人ですね。男子の数人には、一発ずつ殴られたりもして……軽くでしたけど。でも、酷いですよね。僕はですね、そんなつもりじゃなくて、ちょっと運動神経が良かったから、鼻高々になっていたかも知れないけど、威張って、みんなを支配していたなんて、そんなつもり全然なかったんですよ……。本当に……。でも、解って貰えなかった……」
 諏訪は、前畑を劇団鰻登に迎えて以来、彼への恋心を抱え、
(そんなことを経験していたんだね。スポーツが万能だったがゆえに、逆に誤解され……みたいなもんか。んー。無意識のうちに、偉そうな態度をとっちゃったんだよ、きっと。んー……)
 当初、ささやかだった想いは日に日に増大し、
(……だけどまあ、素敵な肉体に恵まれたねえ、前畑くん。中二のとき、俺に、むりやりキッスしようとした上級生が、もしも、きみみたいだったらなあ。逃げ出したり、しなかったかもなあ。きみが……、ゲイだったりなんかしたら、嬉しいんだけんどなあ……)
 どんどんと、心悶えを激しくしていたのだった。
「……あれじゃ、リンチですね、リンチ。……僕は、ごめんなさいって何回も言って謝りました。相手は集団でですね、何をされるか分からなくて、とっても恐かったですから。そうしたらですね、地元の中学へ進んでからも、同じ小学校の出身者たちは、僕のことをですね、かつての独裁者で、みんなで革命を起こして僕から自由を取り戻したみたいなことを言い触らして。レッテルをですね、貼られてしまったんです……。悲しかった……」
 一度俯いたのだが、再び爽やか顔を復活させて持ち上げた。
「……んでもってですね……」口髭のラインが几帳面に整えられている。
「……ここで、いま、芝居のお稽古をさせて頂いて、ちょうど良い役を頂いちゃって。えーと、――ホントは根っからのヤンキーじゃないのに、周りからは極め付けの超・ワルだって、一方的にレッテルを貼り付けられた少年に理解を寄せる――そんな教官の役を演ることができるなんて、奇遇と言いますかですね、そういうのを感じます。ハイ。感動しちゃったわけなんですね。……僕ですね、いろんな派遣の仕事を経験しながら自分の適職を探していたんですけど、もしかしたら、それ、見付かったかも知れないなあって。この稽古を始めたお陰で。……実を言うとですね、このあいだ気が付いたばかりなのですが、いま、ちょっと、……いえ、かなり、その仕事を、真剣に考えようかなあって思ってるんですよ」
「へえー。それがこの、少年院の教官の仕事ってこと?」
 諏訪が、興味深そうに尋ねると、唐突に――、
「すみませーん。あのー、そのことは、わ……、わたしが……」
 このあとの出番があって控えていた――かほりが、稽古場の後ろのほう、例の幽霊がよく姿を見せる大きな窓のところから、
「……ご説明ぃー、致しますぅー」
 つま先を突っ掛けそうになりながら、稽古舞台のほうへと急ぎ足で出てきた。

  ◆幽霊香盤表<第10幕>へ、つづく◆

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ぼくも、営業できたイケメンにデレデレですよ。
春だからかな〜
th
2008/04/17 12:22

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