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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ小説】 幽霊香盤表 第3幕 (全17幕)

<<   作成日時 : 2008/03/27 08:23   >>

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  ◆◆幽霊香盤表<第2幕>からの、つづき◆◆

 榊守雄介は、複雑な事情で登校拒否を継続中の、ワケあり高校生だった。17歳とは言っても身体が大層――形よろしく鍛えられていて、背丈は185センチもある。甲子園球児たちのようなクリクリ坊主頭をしているので、
「むかし、麻布山高からブルーコメッツに入団した大泉投手に似てるね?」と、そこいら辺りを諏訪が尋ねてみると、
「オレ、野球部にいた」過去形で、ぶっきらぼうに答えた。
 視線は伏し目がちで、できることなら諏訪宙太郎とも口を利きたくない心根が透けて見える。テレビを観ていて、ときおり“かすったり”もしているだろうから、せいぜい、諏訪の顔ぐらいは見覚えがあるものと、我輩などには想えるのだが。
「雄介よ。きみはまだ、本来なら野球部にも在籍中の筈だろうがね?」稽古場まで付き添ってきた財部藤六が、おっかなびっくり、突っ込みを入れてみると、
「もう学校なんて行かねえんだよ! うぜえんだよ!」親戚に対しては、なるほど歴然と態度が良くない。
 大振りの派手なTシャツに、ずり落ちそうなボロボロジーンズ。真っ黒に日焼けして、鼻にピアスを付けている。いまだに息長く流行中の、いわゆるB系というところなのだろうか。
 雄介は、財部の女房サイドの、少しばかり遠い親戚に当たる少年である。我輩、この際、調べてみたのだが、榊守家というのは、川越在郷の名家であると同時に、千年近い歴史の大河を湛える巌榊大神宮の、「聖皇」と称される大宮司の職位を代々受け継いできた、由緒ある家柄だ。雄介は、榊守家の長男として、次の聖皇を継承する“義務”を課せられていたのだった。
 要は、その義務感が気に入らない。行く末を強制的に定められているのが面白くない。その反抗心から、雄介は、家出を繰り返すと同時に、学校へも行かなくなった。
 折りたたみ椅子にふんぞり返り、眩しそうに、稽古場の窓から間断なく突入する熱い陽射しを睨み付けている雄介へ、
「いつから学校に行ってないの? 俺もね、高校なんて全部合わせたって一ヶ月も行ってないんだぜ。雄介くんは、それより長いの短いの?」諏訪は、もの分かりの良さそうな笑顔を、気前良く放り投げた。
「何だと? ホンマかいね? 諏訪くん?」財部も、その話は初耳だったようだ。
「へっ! そうなの? ドラマで善人そうな役ばっかりやってっから、学校とかは、ちゃんと出てんのかと勘違いしてたぜ」諏訪が俳優であることを、この少年はちゃんと心得ていた。想った通りだ。
「オレは、半年ぐらいじゃん? 一年の二学期から行かなくなったし。……あ、ちげえか? 五ヶ月か?」初めて諏訪の顔を真っ直ぐに見た。「何で、あんた、学校に行かなくなったんだよ?」
「あんたなどと呼んだらアカン! 諏訪くんに失礼だろうが!」
 ――と、叱る財部をなだめるように、
「中学時代からさ、俺は酷いワルガキだったんだよ。とっくにグレていてさ。おふくろが可哀想だったから、高校の入学式だけは行ってやったけど、あとはずっと“族”で幅を利かせてた。族って分かるか? 暴走族だよ。知らないだろ?」諏訪は、努めて親しげに繋いだ。
「知ってるに決まってんじゃん、名前だけは……。見たことなんかないけどね。いまじゃ、あんな超・だっせえ集団、田舎のほう行かなきゃ見らんねえし」
 雄介が、鼻でフンと笑い捨てると、
「諏訪くんな……。そういう話はなあ……、芸能記者が聞き付けたら恰好の週刊誌ネタにされるがね。口外無用にしてくれないとアカンわな」財部が、神経質丸出しの鬱陶しげな顔になった。顔の周りで、プーンプーンと飛び交う数匹の蚊を追い払う。
「いや……、実は、俺ねー、芝居のプロット、すでに立てちゃってるんですよー。それが何とねー、俺の不良時代の実話から、物語はスタートするんっす!」
「なにー! 大丈夫なのか? そんなことして? きみがボコボコに叩かれるだけだぞ、マスコミに」両手で、パチンと音を立てて空中を挟み潰した。両手を拡げて成果を確認しようとしたら、九死に一生を得た蚊が一匹、勢い良く飛び立った。
「叩かれないような筋にするんですよ。それに、雄介くんのキャラがバッチリ嵌るんだなー! こいつは、渡りに船でっしょー」
「ちょっと待てよ! どうしてオレが、あんたたちの劇団で芝居なんか、やらなくちゃならねえんだよ?」と、ふて腐れた雄介の唇が、へしゃげながらニューッと前方へ伸び出してきた。
「それはだな……、えー、つまり雄介んところの両親どのと、おれの女房が親戚でだね、あー、きみが家出ばかりしてだ、学校にも行かなくなってしまったから、それならば仕方がないと、この際、我が劇団鰻登できみを引き取って、しばらくのあいだ演劇を経験して貰うことによってだな、ま……、その、社会を知ると言うか、努力してみるという実践を通じてだ、あー……」財部の、もったいぶった説明を封じて、
「学校なんかよりも、絶対に面白れえぞ!」諏訪は、一発で雄介を惹き付けた。「やってみねえか? 雄介くんには、俺の役を演って欲しいんだ」
「えーっ? あんた……の役って?」
「暴走族時代のどうしようもないワルだった俺を、きみが演じるんだよ。それと、もう一人のユウスケをな……」

       ***

 稽古は、四日目に入っていた。
「きみらは、後ろのほうで、台詞無しのモーションのみ!」
 諏訪が、街の若者役を演る数人の劇団員に指示を飛ばした。
「雄介くん。いいか? きみはグレ始めた頃の俺……、いや、若きスワ先生をここで演じる。分かるか?」
「全然、分かんねえよ。何やったらいいわけ?」不安な心が作用することで雄介の長身は萎縮し、無意識的猫背になっている。本人は気付いていない。語気だけは相変わらず小生意気だった。
「ここは、俺がナレーションを入れる。いまから喋ってみるから、よく聞いてくれ。その語りに合わせたアクションを、若者役のみんなと、自由に演ってみてくれ……」
 雄介は、チッと舌打ちをして天を仰いだ。鼻のピアスは相変わらず、同じところにくっ付いている。つまらなそうな態度をとり続ける割りには、こうやって四日間も、連日、稽古場に足を運んでいるのである。この期間、財部の家で世話になっているとは言え、あくまで稽古への参加は自由意志に委ねていた。来たくなければ来ないだろうと踏んでいたし、諏訪としては強制したくなかったから、いなくなってしまうようなら、さっさと見切りを付け、急いで代役を立てれば良いだけだと考えていた。
「……あ、だけど、その鼻ピアス」諏訪は、顎を擦すりながら思案した。すると、雄介は、
「ナンだよ? ……」胸を反らし気味にして、目を細め、
「……文句あるなら言えよ」挑戦的な面構えで諏訪を見据えた。
「ま、いっか……。あの頃は、そんなの付けてる族メンバーなんて居なかったけど……。まあいい。そのほうが、かえってリアルだね、いまの時代は」
 諏訪は、些細なことで互いの感情に傷を付け、心の溝を拡げることもなかろうと、あっさり妥協した。
 そして、すぐに財部の反応を探ってみた。額に八の字を寄せ、神経質な性格を露わにして、稽古のあいだじゅうというもの、ずっと落ち着きなく右へ左へとウロウロしている。耳障りな咳払いを連発して、稽古場にわざとらしく緊張感を張り詰めようとする。
 財部は、この芝居に関しては諏訪に一任しているので、口出しをしないように極力、抑えているようだ。しかし、もともと、ピリピリした空気の中で、叱り飛ばし、罵り倒して、地獄のような稽古をするのが好きな指導者である。日頃から、――苦しみもがいた末に喜びが生じるのだ、――マゾヒズム的快感こそが芸術の原動力だ、などを持論として、団員たち全員から煙たがられている。
 従って、諏訪が、――物事を愉快にオープンマインドで、――厳しい中にも笑顔を常に、という芝居作りを旨標とする姿勢を、内心、財部は快く思っていない筈だ。
 無論、財部藤六という男が、演劇人として、誰もが進んで一目も二目も置きたくような優れた才覚のある役者だったとか――もしくは、いまなお、そういう役者であるとか――なら、彼に倣って厳しい稽古を主義にするのだって良かろう。
 だが、財部としばらく関わってゆくと、どうも、大したことがないのが判ってきてしまう。残念だが、中身が空っぽ。ただの癇癪持ちで、狂ったような声で怒鳴るだけ。二言目には、毎度のお決まりで、マゾヒズム的快感がどうしたこうしたと、一つ覚えの屁理屈を捏ねるので、すっかり馬鹿にされているのだ。
 諏訪は、ナレーションの続きを語り始めたが、
『面白くないことがあったら、俺のほうから面白くしてやったのさ。学校なんか行くわけがねえだろ。昼も夜も、フラフラと渋谷や原宿、六本木辺りを徘徊していたっけな……』すぐに中断すると、
「雄介くんは、渋谷とか六本木に遊びに行くのか?」いきなり質問に切り換えた。
「あ? 渋谷は行くぜ。六本木なんていかねえよ」
 稽古のときは、活動しやすい夏用トレーニングウエアの上下を、わざわざ着て来るほどだし、雄介少年には、案外やる気があるのだなと、諏訪は見抜き始めていた。
「そこにいる若者役の兄さんたちに、因縁を付けてくれ。無言じゃ演りにくかったら、何か喋りながらでもいいぞ。カツアゲなんて、お手のもんだろ? 普段通り、ガンガンにやって見せてくれ。いくぞ……」
 ナレーションを再開した。
『カツアゲとかしながら、ゲーセンをアジトにして遊び回ってた。金があっても脅かすことが楽しくて、何でも言う通りになる弱っちいパンピーどもを、思うがままに弄んでやったもんだぜ』
 雄介は、いつもやっている通りの“つもり”なのだろう、若者役たちを相手にして、
『この野郎! だっせえ髪型してんじゃねえよ』理不尽な難癖を付け、
『オレを誰だと思ってんだ』手当たり次第、殴り掛かったりもしているが、客の視点からの映りがいまひとつだった。
「オッケ。それ、いいんだけど、動きが小さいんだ。こっちから見ているとね、何をしているのか分からなくなったりする。いつも、普通に雄介くんがやっている喧嘩よりも、動きをもっと大振りにして、分かりやすくしてみてくれ」
 ダメは出してみたものの、なるほど背丈がある雄介の押し出しは大したものだった。身が軽いと見え、動けば動いたなりに迫力もあって、舞台映えは十二分と、想ってもみなかった華が雄介にあることを、諏訪はこのとき知った。
『夜になれば大井埠頭の一般道でサーキット。むかしは邪魔する奴らが誰もいなくて天国だったからな』
 アクションクラブにも所属している若者役の現役団員と、臨時のエキストラ役者たちが、適切なリードをしてくれていたからではあるのだが、
「ここは、バイクで暴走するアクションだけど、あっさり済ませていいや。しつこく演ると、オートバイごっこしてるみたいで変だからな。ナナハンの現物でも持ってくりゃ、べつだが……」
 諏訪の指示に雄介も良く応えて、巧みな動きを見せていた。身体を使った大技だったら、雄介は、かなり上手にこなせそうなことが判ってきた。
『いつも気合いを切らさなかったし、根性全開だしよ。喧嘩は天性の素質があるから誰にも負けたことなんかない。ボコボコにして、半殺し状態。そのうち、誰も俺に逆らう人間がいなくなった。最初は調子に乗っていやがった先輩までもがな』
(おっし! この場面は使えそうだ……)
 諏訪が、OKを出そうとしたそのとき、
「うわあっ! 何だ、いまの!」雄介が、場違いなピッチで、突拍子もない驚きの叫び声を上げた。殴り合いの芝居がストップし、白けた役者たちが何事かと顔を見合わせている。
「どうしたんだ!」諏訪が、訝しそうに怒鳴った。
「消えたあっ!」敵対する族同士の抗争のシーンで、雄介が、数人の暴走族役たちと立ち回りを演っている最中だった。
「何が消えたって?」
「いま、殴った相手の人……、ボディにゲンコツがフウッと通り抜けたと思ったら、スッと……、いなくなったぜ……」
「何を言ってる! 真面目にやれ!」諏訪は、そう声を荒げて稽古の空気を一度締め、
「ここじゃ、透明人間になる芝居なんか、誰にも教えてないんだぞ!」バター臭いジョークを継いで、一気に緊張感を緩めるつもりが、それどころか自分のほうから恐ろしくなっていた。また、例の幽霊だと直感したからだ。
 そのせいなのかどうか、誰も笑わない。すでに、幽霊の噂が立っていたのだから、なおのことだった。
「だって、五人いたよね? 暴走族役の人たち?」雄介が、興味津々だとばかり顔を輝かせるが、
「ん? いや違うよ。そこのトラさんたちは……四人だけだ」諏訪は、段取りを確認してあるから自信があった。
 エキストラの役者たちも、合計四つ並んだ頭蓋の動きを揃えるように、クンクンと頷いている。
「うそうそ! いまのシーン、最初っから五人いたぜ。オレ、数えてたもん。何これー、めちゃ面白れえ! 稽古場の幽霊じゃん? オレ、好きだぜ、そういうオカルトチックみたいなの!」
 すると、必要以上と想われる咳払いをくどくどしく重ね、
「休憩してくれ! 休憩や! 雄介、ご苦労さんだったわな。芝居……、相当なもんじゃないかや。できるできる。……でも、ちょっとだけ、きみは疲れたんだがね。いきなり慣れない芝居で、頭に血が上って幻覚でも見たんやろ」財部が、むりやり稽古を中断させて、場を鎮めようと、
「幽霊なんて、うちの稽古場にはおらん! みんな、他所でいらんことは言わんどいてくれ! 興行に悪く響くといかん。いいな? 分かったな?」
 おっかない顔をして、一同を睨み回した。
 我輩が察するに、この財部という人間は腹の底から、幽霊というものがお気に召さないようである。

       ***

 劇団最長老の内田登志朗は、ここのところ血圧が高めなことを気にしていると、しみじみ語っていた。
「娘がね、私にはもう、ほんの一滴も……、酒を呑ませてくれないんですよ」扇子をパタパタと鳴らし、胸元を扇いでいる。
 常に最高血圧が150台の後半で、最低血圧も平均して95を超える。比較的軽度とは言え、立派な高血圧症である。
「そうっすかあ。内田さん、日本酒大好きでしたもんねえ」
「ふう……。きついものですよ、楽しみを一つずつ奪われてゆくようで……」諏訪に負けず劣らずの巨漢なのだが、少々元気がない分だけ、萎れてしまった。縦縞の半袖シャツに、ベージュのスラックスをサスペンダーで吊っている。どこにでも居るような普通のデブ爺さま的風情である。
「拝見した感じはねえ、前にお会いしたときよりも、ちょっとスリムと言うか……、その……」諏訪のほうは、緑色のTシャツに、この日はチノパンを穿いている。我輩には、チノパンも毎度のカーゴパンツも、大した相違があると思えない。前者は、ポケットがたくさん付いていないだけのことだろう。
「諏訪さん。お互い、スリムなぞという外来語は、全く似つかわしくありませんぞ」奥行きのある声で太く笑った。
 ガランとした稽古場に、よく響く。多種多彩なスパイスが渾然一体となった声質で、大ベテランの旨味を確然と主張してやまない。思わず、耳を奪われるのだ。オールバックに纏まったシルヴァーグレーを、両手で丁寧に後方へと撫で付けた。ペットボトルの、もう冷たくなくなった烏龍茶を茶碗に注いで飲んだ。
 夜の十時を回っているのに、和田堀公園の蝉たちは、まだジージーと未練がましい。涙ぐましいと形容すべきだったか。内田の身体を慮って、稽古場は、窓を全部閉め切ってエアコンを入れてある。酷暑のデイタイムは、なるべく外出を控えているのだそうだ。芝居の仕事は、ここ劇団鰻登の他に、数カ所で客演の出入りがあるが、それでもトータルすると、年に二回から三回ほどのことで、ぼちぼち70歳になろうとしている現在は、名優・内田の全盛期と比べると舞台に上がる回数がガタンと減った。全盛期と言うと、やはり演劇の世界に、そしてこの劇団自体にも、もっと元気があった二十年前ぐらいの時期である。舞台人・内田の活躍は劇団鰻登の盛衰とともに――、尾根に登り、ときに頂きを極め、そして裾野に下った。
「やれやれ……。ここにしたって、年に一度だけ、辛うじて定期公演を守っているだけですからなあ」
「そうですね。内田さんにお会いできるのも、夏のあいだだけになってしまいましたものね」と言ってしまって、諏訪は、オッといけないという顔になった。
「正直なことをおっしゃいますな……」内田は、微妙に寂しげな苦笑いで応じた。
 自分の手元に入り用な分ぐらいは、お国から支給される年金でどうにかなっているし、娘夫婦と一緒に生活していることもあって、がむしゃらに仕事を追い掛ける必要など疾うになくなっている。悠々自適。だが、テレビ番組のナレーションに起用される機会だけは、以前よりも若干増えた。
「……ジジイの声が欲しいときだけです。私にお呼びが掛かるのはね。姿形なんぞは、もう要らない」
「そんなー。さびしいことばっか言わないで下さいよって。いよいよ、また俺らの芝居を演る準備をしているんですから。さあ、質問を続けますよ」
 松坂のときと同じように、諏訪は内田と折りたたみ椅子に座って向かい合っていた。
「内田登志朗は、すっかり年老いて気力も体力も衰えたと、その帳面に書いておいて下さいな」本当に力が抜けたように肩を落としている。
「どうしちゃったんですかあ? 何かあったんですかあ? 思い切って、今日は何でも話して下さいよう」
 第一線から退いてしまったというわけでもないのだから、我輩にも、彼がリタイア症候群とは想えなかった。たしかに、内田の舞台は減った。でも、歳も歳なので、自然なことでもある。テレビのナレーションを演るのだが、声だけと言っても、決して侮れない仕事だ。もちろん、巷の人間は、ああ――あの声の主はこの爺さんだったのか――と、初めて内田に出逢えばそう思うだろう。声と顔が結び付いていない人が多い筈だ。ところが、誰でも絶対に聞いたことのある声だと、我輩は言い切れる。感じの良い個性的な声をしているからだし、つい惹き込まれてしまう話術話法も得難い才能があってこそ。二人と無い存在だ。旅もののドキュメント番組、時代劇やホームドラマ、クイズやヴァラエティーのVTR、――など、始終どこかで何気なく耳に入って来るのが、内田の声なのである。
「どうして気が沈むのかを、諏訪さんに話して聞かせることが、今度の芝居に役立つとでもおっしゃるのですか?」烏龍茶の入った茶碗を、静かに口元へ運んだ。
「役立てたいと、俺は思って、それで出演する役者さんたちにガンガンガーンと、インタビューしているんっすよ」
「ほう……」
「役者さんの心の内に秘められた何かまで、引っ張り出したいんです、本当は。それを、俺の考えている芝居にどう活かすか、あるいは活かせないか。稽古で、俺と役者さんが対決するときに、ポッと閃く切っ掛けになったらと思って、何でもいいから、お聞きしておきたいんですよう」
「案外、オーソドックスな手法を採用しましたな? 俳優を念入りに取材しておいて、それを参考に、稽古は口立て……。ずいぶんとむかしに、津田陽平劇団でやっていたのと、そっくり同じやりかたなんじゃありませんかなあ?」内田は、ゆったりと微笑んだ。
「恐れ入りました。その通りでーす。正直なとこ、台本を仕上げる時間がなくってねー」
「それは構わんのですが、問題は私自身ですなあ。口立て芝居なんぞ、いまの私に務まりますでしょうかねえ? ナレーションばかりしていますから、読むことだったらお手のもの……ですがねえ」
「なるほど……」諏訪は、しきりに頷いた。
「記憶力にしてもねえ、諏訪さん。私ぐらいになると、情けないものですよ。むかしみたいに、台詞が頭に焼き付いてくれない。テレビのドラマだったら、よくカンペを使いますがねえ。そんなもの、舞台でやったら笑いものですもんねえ。……ま、とにかく、台本があったって、この歳では、そういうありさまなのですから……」
「オッス! 了解しました。何とかしますって」頷くのを止めた。
 内田は、一度スチール製の折りたたみ椅子を引いて、居ずまいを正すと、やや前屈みになり、板床に貼られた――舞台端を示す黒いビニールテープを、視線で、ゆっくりとなぞった。
「……諸行無常を痛いほど感じるのですよ、諏訪さん。私の衰えもそうですが、それだけじゃあない……。娘は、私に優しくしてくれるし、義理の息子も真面目な男だ。私の面倒をこんなに良く見てくれて、ありがたいことと思ってます。……妻が死んだ悲しさを紛らわしてくれたのは、孫たちだった。そら、可愛くって可愛くってねえ。女の子と男の子なんです。……上の女の子は、大学に進んだは良いが、留学でイギリスへ行ってしまった。そして、下の男の子のほうは、いま高校生でしてねえ。大きいと書いて、ヒロシと言う名なのですが。……だが、年頃の子どもというものは難しい。小さい頃は、ジージ、ジージと言ってねえ、懐いて甘えて、いっつも私の膝元へ遊びにきて。はは……。私が育てたような気になっていたもんですが。いまは、すっかり……、こんな私を見向きもしなくなってねえ。それどころか、年寄りを小馬鹿にするようになってしまって……。憎らしいものですよ。酷い言葉で罵る。汚物のように避けようとする。どういうもんだか、最近の子どもたちは、親に対してもそうだが、爺さまにも、それから近所の人たちへも、やたらめったら、辺り構わず反抗して、わざっと逆らってねえ。いったい、何がそんなに面白くないやら。荒み切っていて、ぶん殴ってやりたいですよ。そりゃ、私だって若い時分は突っ張ってもいただろうし、年長者から見れば、小生意気なガキだったでしょうが。いまの子どもたちは、それとはどこか違う……。極端に恐ろしい。眼光が淀んでいて、私に対する殺意まで、ときおり感じますもの。よく分からんが、きっと世の中の、いや、人間の……、何やら根本が変わってしまったのではなかろうかと、嘆かわしく感じるのです」
 和田堀公園の蝉たちは、さっきよりも声を潜め、代わりに蛙のコーラスが賑やかになった。

       ***

「なるほど。ユウスケ役を演るのは、そこにいる、あの新入りさんですな……雄介くん。財部代表のご親戚とか? 血筋とまでは決して申しませんが……、私も、なかなかの逸材だと想って、ずっと稽古を眺めているのですよ」
「俺の……、じゃないや……、スワ先生の少年時代も演じさせるんです。二役ですね」
「ほほう。すると、そうすることで、悪かった時代のスワ先生が、教え子であるユウスケに、自分のイメージをダブらせていることを示そうという狙いですな? お客が混乱しないと良いが、たぶん大丈夫でしょう」
 口立ての稽古ゆえ、プロンプがいない。だから、内田の出番のときは、大型モニターをカンペにして、読みながらでも構わないことにした。幾度も、そうやっているうちに、きっと本番までは頭に入ってくれるだろうと期待したのと、もしも本番でに至っても記憶力に不安のあるときには、別の手段を講じることにした。内田お得意のナレーションでカヴァーするという手段だ。でも、あくまで芝居なのだから、なるべくそれをやりたくないのが諏訪の本音だった。
「沼上高校の、ユウスケなど悪ガキグループの数名が、商店街じゅうに落書きをして迷惑を掛けていたと、そういう設定になっているわけです。困らせていた相手が、内田さん演じる商工組合理事長のウチダさん。本屋の店主あるいは文房具店の主人ということで、どちらでも結構ですから」
「ほうほう。合点、承知。では、私はどう演じれば……」
「困り果てたウチダさんが、学校に怒鳴り込んで来たという場面を作りたいのですが」
「腹を……、立てているのですな。悪ガキどもに……」
「落書きが繰り返されて、遂に、堪忍袋の緒が切れた状態なんです。我慢の限界を超えて、学校へ乗り込んで来た……と」
「そうですか。心臓に負担が掛かるといけませんから、お手柔らかにね……」穏やかに微笑んだ。持ち前の優しさが伝わる。
 にっこりと頬を丸めてから、諏訪が唐突に芝居を立て始めた。
『生活指導のスワと申します』
『あんたの学校の生徒だろう! もうイイカゲンにしてくれませんかねっ!』僅か数秒にして、内田が持つ、素のキャラクターとは、まるで別人の芝居振りに変貌してしまった。
『は? ……と、おっしゃいますと?』
『へっ! 気付いてないんだから始末が悪い。落書きですよ、落書き。消しても消しても、キリがないんだ。しっかり指導して貰えないもんかね、全く!』
『沼上高校の生徒が、落書きをしているのですか?』
『ああ、そうとも。証拠ならありますよ。うちの町内会と振興組合とでね、防犯ビデオを何ヶ所か付けたんだ。ホントなら設置費用もお宅の学校に請求したいところなんですがねえ』簡単な打ち合わせだけしかしていないというのに――、
『はあ……』
『そのビデオに映ってますよ。あんたんとこの生徒が、商店街じゅうにスプレーペンキでねっ!』
 ――内田が機転を利かせ、防犯ヴィデオまで持ち出してくるとは意表を突いていた。
『分かりました。生徒がご迷惑を掛けて、大変申し訳けありません』
 演技では恐縮している諏訪だが、実態は右手の親指を立て、
(いまのアドリブいいですよ、グッド!)と、力を込めて示している。
『あっさりと認めたね。さあ、それじゃ、一体全体どうしてくれるんだ?』
『放課後や週末。このスワが中心となって少しずつでも商店街の落書きを消して回りたいと思いますが、いかがでしょうか?』
『何も、あんたがやることはない。そんなこと、生徒にやらせたらいいじゃないか?』
『生徒たちに、ただ消せ消せと命令しているだけでは、いつまで経っても、何も進展しないでしょう。このスワが一人だけでも、まず実践して見せてやることが大事なんです』
 劇団鰻登の最古参・内田登志朗の口立て芝居は、文字通り傑出した匠の技――、まさしく阿吽の呼吸で、その芝居の勘たるや別格だった。諏訪の欲しいところを綺麗に先読みし、滑らかに物語を継いで、先へ進めてくれたのだ。

  ◆幽霊香盤表<第4幕>へ、つづく◆

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