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help リーダーに追加 RSS 【A Gay's Mumble】 ヤツのお母さんの告別式

<<   作成日時 : 2008/03/26 02:24   >>

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 ヤツのお母さんの告別式―――。

 ごく、近しい親戚筋の方々だけが集う、比較的こぢんまりとしたお葬式―――。
 そこへ、僕のような得体の知れない者が参列するのは、勇気が要った。

 ヤツと僕。
 真の関係は、互いに愛し合うゲイとゲイだ。
 しかし、親しい友人―――弟分と兄貴分―――などと、もっともらしい説明を付けた。
 本当のことは、まだ言えない。

 どうしてもヤツのお母さんを、最後の最後まで、お見送りさせていただきたかったのだ。
 それは、極めて自然な、そして当たり前の感情であった。
 間違いなく、ヤツのお母さんの最期の数ヶ月間を、ヤツと一緒に/ヤツを介して見守らせていただくことができたからこそだ。

 ヤツのお母さんと何度もお会いし、そして面識を持たせていただいておいて、本当に良かった。

 お母さんの最期を支えたヤツの頑張りを、ずっと見つめ続けてきた僕だからこそ、お母さんを亡くした悲しみに打ちひしがれながらも、お父さんは既に亡く、遺された、たった一人の子として、葬儀の喪主を務めなくてはならなかったヤツのために、黙って、そばに居てあげたいと思った。

 お通夜、告別式、―――僕の振る舞いは、遠慮がちに、控えめに、ただただ寡黙に、出しゃばらず、―――であった。

 何度か訪れた<お焼香>の順番は、必ず僕が最後になるよう、心掛けた。
 こういう習わしについては、ことのほか細かいことを仰る方というものが必ずおられるから。

 あくまで、葬祭の主体は、血の繋がった家族、そして親戚、―――であるべき日本の慣習。
 お通夜もお葬式も、一切は<○○家>のイヴェントだ。
 本来は、他人様<ひとさま>のしゃしゃり出る幕ではない、―――とされる。

 ヤツの学生時代の旧友にせよ、唯一人のゲイ親友にせよ、もちろん平日だったこともあって、晩のお通夜には参列しても、とくに昼間の告別式にまで出ることはなかった。
 ―――でありながら、表向きは””親しい友人””以上の何ものでもないはずだった僕が、告別式にも列し、そして、ヤツのお母さんの亡骸を斎場で荼毘に付し、お骨を拾うところまで、独り親戚の皆さんの中に混じって、お務め申し上げるのは、かなり心臓の強さが要求されることだった。度胸が要った。
 親戚の皆さんがたの中へ、僕は一人、得体の知れない人間として加わったのだから、否応なく、目立つ存在であっただろう。

 ところが、親戚の皆さんがたは、ことごとく、却って僕のほうにお気遣いを下さった。有り難いことだった。
 僕が訝しい目で見られてしまうようなことは、全くなかった。
 これも、ヤツが事前に上手いことを言って、根回しをしておいてくれたからだろうと想っている。

 それ以上に、ヤツも僕も、内心でアッと驚くような出来事があった。
 それは、ヤツのお母さんの亡骸を荼毘に付し、収骨をするときのこと―――。

 ヤツは喪主で、僕は参列者の末席/末尾だ。
 一連の儀式の、どの場面でも、ヤツが最初に動作をし、順番が巡り巡って僕は最後―――でなければならなかった。

 ところが、いよいよヤツのお母さんのお骨を拾う段になって、
「それでは、喪主さまから、どうぞ……」と、係の人に促されたとき、ヤツと僕が、たまたま隣同士に居合わせる流れに自然となって―――、

 二人で一緒に―――、
 一つのお骨を―――、
 骨壺へ投じることができたのであった。

 ヤツと二人で一緒に、ヤツのお母さんのお骨を拾うことが叶ったのだ。
 それも、収骨の儀式、その一番手として。

 何かに操られているかのようだった。

 ヤツのお母さんが、目に見えないちからを以て、そう仕向けて下さったに違いない。
 ―――と、僕だけでなく、ヤツもまた同じように感じたらしい。

 きっと、こういう結婚の許し、そして結婚の誓いが、あるものなのである。

 そのことを、ヤツも僕も、言語を超越した感覚によって認識し合っていた。

 誠に、不可思議なちからであった。

画像

 これから毎年、ヤツと僕は、桜の花が咲く頃に、この日のことを必ず想い出すことになるだろう。
 もちろん、ヤツのお母さんのことは、つねに僕らの脳裏にあり続けよう。

 僕は、ヤツに言う。
「お前のお母さんは、いつでもお前のことを守っていてくれるんだ。お母さんは病魔に苛まれた肉体を離れただけ……。お母さんの存在が消えて無くなってしまったわけじゃない。寂しいだろうけど、悲しむな。これからは、どんなときも、お母さんが導いてくれるから。いつまでも、お母さんへの思いを大切に持ち続け、お母さんの好物をお供えして、『守っていてね、教えてね』……と、祈るんだぞ」

 宗教でも何でもない。
 それが、心というものだ。

 思うとき/祈るときに、心が通じる/通じ合う。
 それが、真髄/本質というものだ。

 全ては、愛し合うことに根幹がある。
 精神の中核は、愛なのである。

 人間の邪念が勝手に作り上げた打算的な形式論に染まることなく、ひたすら純粋/素朴に、愛と、愛する情とを貫いて生きれば、誰にだって、必ず救いのときが訪れる。


 ヤツと僕は、ついに新しいステージへと、足を踏み入れることになった。


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