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僕は、非道い目に遭っていないほうなのかも知れない。 ・ 中学生のとき、僕は、うっかりしてゲイであることを多くの同期生たちに知られるところとなったことがある。 ある同期生男子に、僕が同性愛行為を持ち掛けてしまい、いったんは受け入れてくれたので安心していたら、何と、その男子が翌日、”被害者”として、ことの次第を学校でバラしてしまったのである。 その男子に恨み言はない。以降も仲良くしてきたし、いまでも気心の通じ合う友だちだ。奥さんも子どももいるヘテロである。 ・ 当時の僕は、ごまかしつつ懸命に否定してみせたものの、いま想うと、中井(僕の本名)はゲイなのである―――と、あのときすでに同期生たちのあいだでは、定説になってしまっていたのだろうかと感じないわけではない。 ただ、必要以上に取り沙汰されることがなかった。 いっとき、同学年じゅうが、かなりの大騒ぎになったものの、比較的早く収束してしまったのだ。 その後も、誰も、僕のことをゲイだのナンだのと言って、バカにしたりイジメたりすることはなく、むしろ、数人の男子たちから、 「お前もそうなの……?」と、さり気なくモーションを掛けられたりした。 そいつらは、僕がゲイだと騒がれたことを機に、僕だけに、 「オレもゲイだよ」―――と、カミングアウトしてくれたかたちになったわけだが、僕のほうが当時、ゲイネス(=ゲイであること)を隠すことに懸命だったため、そいつらと特別な関係になることはなかった。つまり、せっかくこっそりカミングアウトしてくれたのに、僕は自己保身のため、そいつらのアプローチを無視してしまったのだ。悪いことをしたものだ。 いまにして、あたらめて考えてみると、そこで、そいつらとゲイ同士の秘密サークルでも作ってしまえば良かったのにと、もったいない気持ちになるが、あのときは、残念なことに、そういう発想に至らなかったのだから、仕方のないことである。 いずれにしても、やはり僕は非道い目に遭っていないほうだ。 つまり、いったんはゲイであることが判明してしまったにも関わらず、テキトーにウヤムヤ処理してみたら、それでどうにか済んでしまったからだ。バカにされたり、イジメられることがなかった。幸運だと思う。 本格的なカミングアウトを少しずつ開始したのは、中学生時代からずっと後になってからのこと。三十代に入ったころからである。 しかし、僕がゲイだと本格的に知った中学生時代の旧友たちの反応が、 「なんだ、やっぱりそうなのか」程度に、とても冷静だったところを見ると、僕がゲイであることは、中学生時代に定説化していた可能性がある―――と、いまさらながら感じるわけだ。 だったら、もっと早く、本格的なカミングアウトを始めれば良かったと、僕は自分の過ぎた慎重さに呆れる。 僕自身は、カミングアウトをし始めて、良かったと感じることのほうが多い。 何より、気が楽になった。 もとより、ゲイであることを悩んだり、ヘテロになってしまいたいなどと考えたことは、ただの一度もない。 それでも、ヘテロの振りをして友だちなどに接しなくてはならなかったときは、とても嫌なものだった。自分を偽るのは心持ちが悪かった。嘘をつき通すのが面倒だと、いつも感じていた。 ゲイであることを隠さないほうが、精神衛生上、とても良いと思う。 一般論として、世の中の大多数=ヘテロの人たちがゲイを受け入れるようになるには、どうしても、彼/彼女らヘテロの人たちが、ゲイと<遭遇>する必要がある。 僕らゲイは、すでにヘテロの人たちと遭遇している。世の中、ヘテロが基準になっているからだ。ゲイとて、多くはヘテロの振りをして生きているからだ。 いっぽう、ヘテロの人たちは、自分の周りにヘテロしか存在しないと思っている。ゲイという”人種”が、この広い世界のどこかにいるのだそうだ―――ぐらいのことを漠然と考えるときはあるだろうが、まさか自分の身近にも大勢ゲイが存在しているとは、夢にも想像しないはずだ。 だから、ゲイについて知ってもらい、理解してもらい、受け入れてもらうために、ヘテロの人たちがゲイと直に遭遇するとのステップを、まず踏んでいただかなくてはならない。 しばしば、ゲイの可視化が必要だと言われる。 可視化とは、存在が見えるようにするという意味だろう。 でも、見えるだけでは不足だと言えないだろうか。 ヘテロの人たちが、もっと間近で、ゲイと遭遇する経験を積んでいただくこと、そして、遭遇したゲイと直に<対話>していただくこと、こうしたことごとを抜きにして、本当の意味でヘテロの人たちがゲイを理解したり、受け入れたるすることは、できないのではないだろうか。 ゲイが、自分のゲイネスをカミングアウトすることには、一つに自分の気持ちを楽にするとの精神衛生上の効果があり、もう一つには、世の中の大多数を占めるヘテロの人たちに、ゲイについて知ってもらい、理解してもらい、受け入れてもらうためのステップを設けるとの意義がある。 一般論として、ゲイ自身がゲイネスをカミングアウトすることは、必要である。挑戦したほうが良い。 ただし、個別論として、さまざまな問題が生じる恐れは多々ある。 だから、個別論の土俵では必然、それぞれのゲイが個々に、カミングアウトしたほうが良いか、しないほうが良いか、天秤に掛けつつ、考えることになる。 すべてのゲイがカミングアウトしなければならないなどということはない。 カミングアウトするかどうかは、個々に判断するべき問題であって、誰かに命じられたり強いられたりする事柄ではない。当たり前な話である。 しかし、カミングアウトできるのなら、したほうが良い。挑戦できるのなら、挑んでみたほうが良い。 なぜなら、カミングアウトが本人の精神を和らげ得るし、ヘテロの人たちにゲイの存在を直に知らしめることで、彼らの意識を変える契機になり得るからだ。ヘテロとゲイの遭遇と対話こそが、社会におけるゲイ理解と受容を促す可能性がある。 カミングアウトに挑戦した後の、具体的な結果については、ケースバイケースだとしか言いようがない。カミングアウトすることによるマイナスの作用も、少なからずあり得るだろう。 であるからこそ、それぞれのゲイが主体的に、カミングアウトの是非を自分自身に問うのである。 すべては可能性の話なのだ。 良い方向に展開する可能性も、その逆の可能性も、両方ある。 とは言え、必ず良い結果になると断言できる判断など、果たして、この世の中にあるだろうか。やってみなくては判らないことばかりではないだろうか。カミングアウトも、そうした世の事象の一つだ。 カミングアウトが、決まって悲惨な結果を招くかどうかなど、誰にも言えない。幸福な結果を招くと保証することもできない。 でも、トライしてみる価値と、その先、増しな人生が開ける可能性はある。個人的にも、社会的にも。 僕は、そういうことを言っているのである。 昨年末、良書『カミングアウト・レターズ』を編集・出版されたお一人、砂川秀樹さんの、同書に関するインタヴュー記事が目に留まった。 パフナイトというイヴェントで、砂川氏と、同じくこの本の編集者のお一人、RYOJI氏、そして同書を出版をした太郎次郎社エディタスの担当社、北山理子氏らを招き、トークライヴを開催するという企画が予定されているらしい。 僕の、『カミングアウト・レターズ』読後感想記事は、こちらで読める。 カミングアウトとは、極めてシンプルな行為である。 自身がゲイ/レズビアンであることを認め、それを隠さないで生きようとすることだ。 いままでは、カミングアウトに伴うネガティヴな可能性ばかりが強調されていたように感じる。 たしかに、ネガティヴな結果はつきものだし、僕も安請け合いなどしたくない。 例えば、次期アメリカ大統領候補者レースを走る、共和党のハッカビー氏のような差別主義者に向かって、 「僕はゲイです」 「私はレズビアンです」 ―――とカミングアウトしたところで、良い結果を招くとは想えない。 ハッカビー氏が、次期アメリカ大統領になる可能性は、おそらく低いものだろうが、それでも同氏は、アイオワ州の共和党・党員集会で第一位の信任を得るなど、一定の支持を集めていることは確かだ。 しかし、ハッカビー氏は、同性婚を人間と動物の結婚に喩え、聖書を修正する必要などない―――と、キリスト教的教条主義を唱えて譲らない、タチの悪い石頭野郎なのである。 こういう野郎が、世界を牛耳る権力者の座に就くことなど、絶対に阻止されなくてはならないと、僕は強く言う。 〔記事〕ハッカビー氏、同性愛者同士の結婚と動物との結婚を同列に ハッカビー氏の存在だけを捉えれば、カミングアウトにネガティヴな可能性しか思い浮かばないとしても、当然だろう。 でも、世の中、ハッカビー氏のような粗悪な人間ばかりであろうはずがないことにも、ここで一念を置いてみてはどうか。 いつまでも、カミングアウトにネガティヴな意想ばかりを抱いていても、世の中、少しも増しになりはしない。 これからは、カミングアウトのポジティヴな可能性について、もっと語り合いたい。 そうすることで、時代の扉を開くことができるかも知れない。 僕は、そのポジティヴな可能性に賭けたいと考える一人なのである。共鳴して下さる人たちは、決して少数ではないだろう。 なぜなら、時代的感覚は間違いなく変化し続けるはずだから。 そして、その変化を確実なものとするためにも、前向きに、カミングアウトすることのポジティヴな可能性を見出してゆくべきではないだろうかと、僕は考える。 まさしく、プラス思考の連鎖―――。 これが、いまだからこそ、大事なのだ。 カミングアウトを考えているゲイ諸兄、レズビアン諸姉―――。 カミングアウトできる相手を見定めることから始めよう。 ある人には親友が、ある人には先輩が、ある人には家族が……、ある人には???が……。 最も話が通じやすい相手がどのようなポジションなのかは、当事者によって全く異なるはずだ。 そして、どのようなやり方でカミングアウトするかを考えよう。 タイミングも大切。要は、セッティングの妙。カミングアウトの方法一つで、だいぶ相手が受ける衝撃や印象が変わってくる。 カミングアウトとは何か。 カミングアウトは、何をもたらすのか。 カミングアウトするべきか、しないでおくべきか。 どのように、カミングアウトしたら良いか。 どのように、カミングアウトを受け入れたら良いか。 『カミングアウト・レターズ』という本は、カミングアウトを志すゲイ/レズビアンたちに、きっと最強の勇気を与えてくれるに違いない。 『カミングアウト・レターズ』という本は、カミングアウトを志すべきかどうか迷っているゲイ/レズビアンたちに、きっと最適なヒントを与えてくれるに違いない。 『カミングアウト・レターズ』という本は、カミングアウトされる側のヘテロの人たちに、きっと最良のアドヴァイスを与えてくれるに違いない。 クリックプリーズ
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
「カミングアウト・レターズ」へのレターズ
-----たくさんの手紙たち。 ...続きを見る |
悠@悠悠自的。の関心空間 2008/03/26 01:03 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
記事で紹介されてる本を読もうかと思いつつ、なんだかウジウジしてますが・・・ |
名古屋のきりたんぽ 2008/01/20 10:51 |
>名古屋のきりたんぽさん |
円山 2008/01/20 12:45 |
論争は望んでませんので、笑って受け取ってください。 |
名古屋のきりたんぽ 2008/01/20 13:31 |
名古屋のきりたんぽさんが仰った言葉、>>>「私を私として認めてくれる人に出会いたい」>>>と、まさに僕もそう思っています。認めてくれる人が段々と増えてくれることも、願っています。カミングアウトしてゆくとは、まさにそういう思いや願いの体現ではなかろうかと考えます。 |
円山 2008/01/20 23:53 |
ほのぼのとした中学時代ですね〜。私の中学時代とは天と地ほどの差が。バラされた場合、翌日からつまはじきに遭うとかいう話を耳にしたこともあるんですが、円山さんの話を聞くと、カミングアウトについて前向きな気分になりますね。 |
アッキー 2008/01/23 01:22 |
>アッキーさん |
円山 2008/01/23 03:17 |
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