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僕は、無闇やたらに被差別感を訴えるのは嫌いです。 ・ ”ホモ”、”オカマ”、といった呼称を、ゲイ自身が面白がって使っている場面もありますから、これらを一概に”差別語”だと決めつけてしまったり、”ホモ”、”オカマ”、という言葉を使う人たちを、一様に人権意識に欠けていると責め立てるのは、おかしいことだと、僕には思えます。”ホモ・オカマ論争”――みたいなものが、かつて繰り広げられたとも聞きますが、僕は、今は昔の感を覚えます。 ・ 仮に、”ゲイ”という呼称こそ、男の同性愛者が自分たちを表すのに最も適した呼び方なのだとしても、世の中には、 「あいつ、ゲイだってよ……」と言って、ゲイをさげすむ人たちがいるのです。そうなると、もはや”ゲイ”にしても、けっきょく差別語と変わりがありません。 中国人、アメリカ人、朝鮮人、スペイン人、韓国人、モンゴル人、フランス人、……どれも同じように、国籍によって人を言い表す言葉であることに違いがないのに、ときと場合によって、うっかりすると差別語的ニュアンスで用いられてしまうことが、なきにしもあらずです。 このように、言葉――呼称は、それを用いる人の”心のありか”がどこにあるかで、単なる呼称に過ぎないときと、著しく差別的意図で使われるときがあるのです。言い換えると、全ての言葉――呼称は、差別語に転じられる可能性があります。 竹宮恵子 『変奏曲』 より 書店やゲーム店へ赴くと、たいてい、大小どんな店にも一定規模のスペースが、BL=ボーイズ・ラヴ系の書籍(小説・コミック)やゲーム類を販売するために割かれていることに気付きます。それだけのスペースを割くだけの意味があるのですから、つまりは、かなりのヴォリュームでBL=ボーイズ・ラヴ系の書籍やゲーム類が売れていることを示しています。 BL=ボーイズ・ラヴ系を、いまさら説明する必要はないでしょうが、要するに同性愛の世界が描かれていることになっています。ボーイズ……と称するぐらいですから、主立った役どころはみな、少年なのでしょうし、しかも、彼ら登場人物たる同性愛の少年たちは、ことごとく美少年として描かれなくては”ならない”との、絶対の不文律が存在するようです。そして、BL=ボーイズ・ラヴ系を愛読するファン層は、そのほとんどが女性で、自らをなぜか”腐女子”とお呼びになっておられます。腐女子の皆さんは、美少年同士の恋を描いた書籍やゲームを好むこと自体を、独特な感覚であると自己認識されているようで、ご自身がいわゆる”オタク”ないしは”オタク的なるもの”の範疇に入るのだと、しっかり、ご承知のご様子です。 どのような作品なのか全く存じませんが、されど、おおむね中身の見当がつきそうな映画が、このほど封切られたようです。 『BOYS LOVE ボーイズラブ 劇場版』 http://www.boyslove-movie.com/ これまでは、小説・コミック・ゲームなど非実写の作品として展開されていたBL=ボーイズ・ラヴ系作品が、いよいよ実写版・映画として制作されたことが、話題としては新しいとのこと……。それはそれは、おめでとうございます。出演者が勢揃いした封切り初日の舞台挨拶は、おそらく”腐女子”と申し上げて宜しかろう女性たちの観客ばかりで、会場が埋め尽くされたとの報道がございました。 http://www.cinemacafe.net/news/cgi/report/2007/09/2434/ さて、僕だけではなかろうと想うのですが、本物のゲイ諸氏が、こうしたBL=ボーイズ・ラヴ系作品の類に、概して冷たい反応を示す傾向があるのは、いったい、どうしてなのでしょう。 その答えは単純明快です。 一般に、BL=ボーイズ・ラヴ系作品は、夢想の世界を描いていると察せられるからです。 もちろん現実の世界に、BL=ボーイズ・ラヴは、ございます。しかし、いわゆるBL=ボーイズ・ラヴ系作品が痛々しいのは、現実のBL=ボーイズ・ラヴを過度に美化・純化して表現しようとの意図が露骨に感じられ、ついには空々しさまでもが見て取れるからなのだろうと思います。 男の子の 簡単に申しますと、現実のBL=ボーイズ・ラヴは、決して、”腐女子の皆さんが好むような、まさしく絵になる美少年たち”だけで構成されているわけではありません。それこそ、絵空事です。 同性愛は純粋だとのご理解は、それを好意的なものと捉えれば、僕らゲイもささやかな幸せを感じますが、本来、同性愛とてドロドロとした愛憎渦巻く坩堝の中にあります。愛は、異性愛であろうと同性愛であろうと、純粋なものはとことん純粋でしょうし、濁ったものはどこまでも濁っておりましょう。同性愛だから純粋だとの感覚が、まず以て同性愛を誤解していると申せます。 さらに、現実のBL=ボーイズ・ラヴは、現実のゲイ世界、その状況と不可分です。 デブもいれば、チビもいる、ガリガリなのもいれば、むっちりガッチリもいる、オッサンくさいのもいれば、本物のオッサンもいて、ヲネエさまもいれば、オバサンまで存在する、お爺さん世代にだってゲイは存在する、イモ系も、ブス系も、わんさかいる、そして、どんなゲイにも、それなりの需要がしっかりとある、ゲイに捨てる者なし、――と、決して、いわゆる若くてハンサムで美しいとされる少年・青年たちばかりが、現実のゲイ世界で、モテ囃されているわけではないのです。ここが、極めて重要なポイントです。 腐女子の皆さんが、ファンタジーの世界を満喫されるのはご自由ですし、また、そもそも彼女たちが、現実のゲイ世界を受け入れようと思っておられないだろうことは、容易に想像がつきます。BL=ボーイズ・ラヴ系の書籍・ゲーム、そして映画が、彼女ら腐女子の皆さん方の夢想こそを満足させるために作られている以上、もとより、僕ら本物のゲイが、これらに温かい視線を投じるわけがありません。 竹宮恵子 『変奏曲』 より ところで、BL=ボーイズ・ラヴ系作品の中に登場する少年たちのキャラクターは、”ガチホモ”、”ガチじゃないホモ”、……などという風に分類されて描かれている(読まれている)傾向があるようです。 どうやら、ここから派生して、BL=ボーイズ・ラヴ系作品を離れた日常の生活において、誰それが”ガチホモ”だとか、あるいはそうではないとか、冗談の”ネタ”として”イジられている”実態があることを知りました。僕が中高生の時代には、”誰々ホモ説”などと半分バカにされて、やはり冗談のネタにされていたことがありましたが(ある時期の僕自身がそうでした)、おそらく、それと同じような意味で、”ガチホモ”という言葉――呼称が独り歩きをしていると推察することができそうです。 冗談のネタが、素直に冗談のネタのまま、愉快に取り沙汰されるのなら構いませんが、 「お前って、ガチホモじゃん?」 「しかも、ちっともBL系じゃないじゃん!」 ……などと指摘された男の子が、もし本物のゲイだった場合、その男の子にとって、自分を取り巻く状況が素直な冗談環境として受け取られるか、それとも精神的に深刻なダメージを受けるような事態が引き起こされるか、そこのところを、周囲の人たちがどこまで認識できているものでしょうか。 言葉――呼称は、それを用いる人の”心のありか”がどこにあるかで、単なる呼称に過ぎないときと、著しく差別的意図で使われるときがあるのです。言い換えると、全ての言葉――呼称は、差別語に転じられる可能性があります。 ”ガチホモ”を定義すると、ガチは”真剣”を意味する”ガチンコ”に由来するようで、 ガチで(真剣に)、ホモ同士だと思われる男達。もしくはその現象。 でも実際は、あえて“ガチ”を付ける事によって、ネタとしての笑いの純度を高める程度にしか利用されてない場合が多い。 〔引用元 : はてなダイアリー・キーワード検索〕 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%C1%A5%DB%A5%E2 ――などという記述が見られることからしても、かなり配慮に欠けた実態までも想像することができます。 ”ネタとしての笑いの純度を高める程度”とは、これほどふざけた認識レヴェルもないでしょう。はっきり申して、お里が知れた感覚です。 世の”腐女子”の皆さん方は、おそらく、現実のBL=ボーイズ・ラヴ、……男の子たちの同性愛を卑下してなどいないとおっしゃることでしょう。むしろ、若い男の子たちのゲイネスを賛美しているのだとさえ、おっしゃりそうな気がいたします。もちろん、それならそれで結構です。 しかしながら、夢想の世界を愛する、その度が過ぎて、結果的に現実の少年ゲイたちを不愉快な思いに陥らせているとするなら、ひどく無責任な話だと、憤らざるを得ない場面も生じようというものです。 腐女子の皆さんが浸るファンタジーの世界とは全く相容れない現実の苦悩が、本物のゲイたちのあいだに満ちてしまっているかも知れないとの想像力を持つこともまた、欠かすべからざることだと申し上げておきます。 夢想の世界を飛翔するのは、さぞ愉快なのでしょうが、本当のゲイの世界、本物のゲイたちの心を想うことなしに、自己満足のファンタジーのみに回帰する見苦しさを客観的に識られるよう、腐女子の皆さん方には、より高い感性を身に付けられることを、僕は切に希望いたします。 クリックプリーズ
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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おっしゃること、ごもっともです。好ましからぬ差別や偏見を助長する危険性を改めて認識しました。日頃から現実と虚構の区別はつけてるつもりなのですが、そういう意識が希薄にならないためにもこういう意見は大事だと思います。幻想が現実を侵食することがあってはいけないというのは常識ですよね。 |
アッキー 2007/09/12 07:48 |
>アッキーさん |
円山 2007/09/13 00:50 |
はじめまして。オタクでゲイ男子のkarlといいます。 |
karl 2007/09/13 21:38 |
二点目です。次に、たとえBLが現実のゲイ男性を疎外するような性質を持っていたとしても、だからといって「絵空事」だとか「空々しい」とか「痛々しい」といったように評価することには違和感を感じます。 |
karl 2007/09/13 21:51 |
僕は正直こういった時期のBLには歴史的関心しかないのでその表現としての意義や価値については議論しかねるところがありますが、とりあえずひとつこうした時期から現在につながるBLの達成をあげたいと思います。それは女性が性表現をすることがこれだけ広範に可能になったこと自体が、どれだけ社会の自由を増幅させているかということです。たとえばフェミニズムの議論の中では、両者とも性的自己決定権の自由を旗に掲げながらも、性表現や性労働にネガティブな陣営と、現状の問題を認識しつつも性を肯定すべきだと論じる陣営が熾烈な戦いを繰り広げるという光景が見られました。こうした前提に立ったとき、これだけ自由に女性たちが性表現を行い、またそれを享受しているという状況は、安易に否定されていいものなのかと感じます。 |
karl 2007/09/13 21:55 |
三点目ですが、ゲイへの配慮を感じさせるような表現を通して、優れた芸術的表現を行っているBL作家も存在します。ところで、その例を挙げる前に、その前提として、僕はある種の同性愛差別的な性質を持ったBL漫画への批判が許されるべきではないとは思ってはいません。たとえば、先ほど挙げた芸術的には優れていた過去の少女漫画が、現在のゲイから見ればホモフォビックな部分があるのは事実だと思います。美少年だけが同性愛者であるのは一種の偏見といえるし、また多くの場合物語が悲劇に終わることも同性愛嫌悪の表れというほかないからです。しかし、それをいうのであれば、もちろん当時において異性愛者の女性が描く漫画においてだけではなく、こうした偏見や同性愛嫌悪はそれこそ同性愛者による芸術作品にも見られるものであったことを考慮しなければ、フェアではありません。そして、現在のようにいまだ偏見や同性愛嫌悪が残った社会において、そうした要素をあらわすBL漫画が一方にあるにせよ、他方にゲイへのセンシティブな視線をもった漫画が存在することも指摘しなければフェアではないと思います。次に、その例を挙げます。 |
karl 2007/09/13 22:03 |
具体的な作品を取り上げるので、以下ネタバレがあります。 |
karl 2007/09/13 22:33 |
確かに、ネットなどを見ると、現実にゲイが普通に存在し、普通に生活していることに無神経なような腐女子はいくらでも目に付きます。しかし、それはこの社会一般についてもそうだということができます。それなのにゲイがしばしば腐女子をあたかも差別者の急先鋒のように取り上げるのは正直解せません。そもそもBL漫画が普通にポルノグラフィーとしても、また物によっては真面目な芸術表現として好きなゲイとしては、読んでもいないで批判しているだけでは? と感じさせられることもしばしばです。 |
karl 2007/09/13 22:55 |
えーと気がついたらすごい量のコメントになってしまっていてすみません。でも心を入れて書いたつもりなので、文章が下手なのは申し訳ないですが、読んでいただけるとありがたいです。勝手に書き込んでおいて申し訳ないのですが。 |
karl 2007/09/13 23:02 |
>karlさん |
円山 2007/09/14 02:15 |
こちらこそ突然大量のコメントを書き込んでしまってすいません。自分ながらウザイかも!と思ったのですが、円山さんに誠実に対応していただき安心しました。 |
karl 2007/09/14 11:45 |
でも、これって、逆に商業的に安全なものとして消費しようとするためのマーケティング的な方法の部分があると思っています。あくまでBLはゲイではないと言い張ることによって、無力化しようとしているのではないかと。批評的に面白いものをピックアップしていくと、BL漫画にはただ腐女子が面白いと思うという以上に、正当化可能な資質を秘めた作品は結構あるにもかかわらずです。今の日本ってどの分野でもとりあえず住み分けをすることが善であるという価値観があるように思うので、もともとBL漫画が単純に面白いと思いつつも、さらにあえて「これはこれこれの点でゲイである」と言った方が批評的たりうるのではないかと思っていたりします。こうした発想になったのは、たとえば現在漫画が急速に受容されている諸外国において、何事もシニカルに見て住み分けの対象とする傾向の強い日本と異なり、無論多くの場合異性愛女性のために作られたジャンルであることを前提としつつも、BLはゲイにポジティブな可能性を秘めていないかとマジに議論されているのを見て、自分も住み分け思考だったなーと逆に影響されたこともあったりします。 |
karl 2007/09/14 11:57 |
今回はコメントを読んでいただきましてありがとうございました。現代日本におけるゲイについて直裁に語る円山さんの文章はかなりリスペクトし楽しませてもらっています。これからも面白いエントリーを期待しています! がんばってください! |
karl 2007/09/14 12:07 |
>karl さん |
円山 2007/09/14 13:40 |
Aそれと、 |
円山 2007/09/14 13:41 |
大学生の頃は文学研究をやっていたんですが、そのままつい勢いでこの間大学院に進学しました。ただ、文学研究は辞めまして、最近いろいろとできているいわゆる専門職大学院というやつの一種に通っています。法科大学院なので、卒業したあと資格試験に受かるとようやく法曹になれるというアレです。 |
karl 2007/09/15 12:03 |
>karlさん |
円山 2007/09/15 13:30 |
こんにちわ。 |
toorisugari 2007/09/21 22:59 |
それはともかく、 |
toorisugari 2007/09/21 23:03 |
こんな社会の中で育ってきて「同性同士の愛」に美しさを感じるってのは或る意味すごく企画的で「見方の再発見」なんじゃないかなと思います。 |
toorisugari 2007/09/21 23:31 |
昔から「ロミオとジュリエット」のように異性愛を美しく神聖なるものというイメージで表現した映画やドラマがいっぱいでていて、ぶさいくな男女が道を歩いていてもその中にロミオとジュリエットのような美しい愛のイメージが重なって、なんとなくお似合いに見える・・・そんな気がします。(ていうか、女と歩くだけで「恋人同士」だと思われるヘテロセクシズム的な倒錯症もうざいですねw) |
toorisugari 2007/09/21 23:32 |
>toorisugariさん |
円山 2007/09/22 07:14 |
管理者様、スペースお借りします。 |
かなん 2007/12/17 13:23 |
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