低能流[ゲイ]文章計画

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help リーダーに追加 RSS 【ゲイ短編】 最後の抱擁

<<   作成日時 : 2006/11/19 16:54   >>

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 ケンと別れてから、こうして会うのは何度目になるのだろう。
 もちろん、いつまでも気持ちを引きずってしまうのは良くない。お互いのためにならない。僕たちは、きれいさっぱり別れたのだから。でも、未練は、たっぷりだった。無理もないだろう。あのように、いきなり言われてしまったのだから。納得だって、本当は、まだ一つもできていなかった。
「元気そうだね」と、あらためて僕は言った。
「お前も……」
「もう、どのぐらいに、なったっけ?」
「まだ、四ヶ月……」と、ケンは、笑顔になって反射的に答えたあとで、
「あ……、ごめん……。も、もう半年ぐらいだったな? こないだ会ってから……」気まずい顔をした。落ち着き無く、口ひげを弄んでいた。
「早いね。半年なんて」僕も、ケンとそんなに長く音信不通にしていたとは、ちょっとびっくりだった。付き合っていたころは、半日ごと、ケータイメールを交換していたのに。――とは思え、意味のない比較だったのだけれど。
 街中が、思い出に満ちている。だから、できることなら、この小さな街を去ってしまいたかった。でも、そうはいかない。僕は、この小さな街で生活が成り立ってしまっている。ここを出るには、相当の覚悟が必要だろう。
 街中が、トミタの下請け工場になっている。僕は、工場マンだ。この街で働く人間の大半は、自分たちをそう呼んでいる。つまりは、ただの労働者なのに。年輩の工場マンたちほど、頭にトミタの――と、枕詞を付けて自分をそう呼ぶとき、ある種のプライドさえ輝かせているように見える。トミタのブランドなど、僕にとっては、はっきり言ってどうでも良いことだった。


 付き合っていたとき、この広い居酒屋にも、ケンとしょっちゅう立ち寄ったものだ。食事をするのに、よく使った。少し離れた地域なら、他に気の利いたレストランも、ファストフードも、あるいは喫茶店も、この小さな街の中にあるにはあるのだが、そういう場所だとかえって二人が目立った。もちろん、必ず同僚たちに目撃されるわけではなかったが、もし見られれば、どうして君たちは‘わざわざ、工場から離れた場所で’一緒に外食などしているのかと尋ねられただろう。付き合っていた当時は、トミタの社員寮に住んでいたのだ。――二人とも。日頃、工場マンたちが集まる居酒屋なら、いくらでも嘘の説明は付けられた。なにしろ、ランチタイムもやっていたから。


 四人用のボックス席に、僕たち二人は居た。不思議と、いつも同じような場所になった。
「じゃ、乾杯。……相変わらず、お酒、飲まないんだ?」ビールのコップを持ち上げた。僕の作業服の袖口に、エンジンオイルのシミが付いているのが判った。これでも、洗い立てのに着替えたつもりだった。うっかりしていた。普段着にして来れば良かった。
「今日は車だし……。あ……、そうだね、そう。飲めるようになんか、そう簡単になりそうもないや」ケンが、ウーロン茶のコップを突き出した。銀色でチラリと、数種類の光を弾き返した。大人しいデザインのカフスボタンが、そのうちの一つだった。
 僕のほうから、ケンが握るコップの下半分を狙ってカチンと当てる。いつも、そうだった。癖になっていた。年上と乾杯するときには、相手のコップの下方を目掛けて自分のコップの飲み口を当てる。――かなり前に、瀋陽から異動してきた工場マンが教えてくれた。中国には、そういう奥ゆかしい習慣があるのだと。
「言ってたのに。ホームパーティーも多くなるからって。海外からのゲストを接待するのって、こんな酒場とかじゃ、ないんでしょ?」
「ああ……」ケンは、一度表情を曇らせたあと、
「外人って、酒を無理に勧めるようなこと、しないんだ。考えすぎだったよ」健康そうな歯を少しだけ覗かせて笑った。


 あのときは、何も変わらないのだと自分に言い聞かせていた。
“違うんだよ! お前を嫌いになったわけじゃない!”
“そうなの? 本当にそうなの?”
“そうだ。嫌いになったから、別れるんじゃない。……だって、約束したじゃないか。お前を嫌いにならない……、絶対にならないからって”
“そうなんだね? そう、なんだね…………”
 それまでは、ケンも僕と同じ工場マンだった。いつも油まみれになって、元気に働く愉快な先輩で、そして、人を惹き付けてやまないムードメーカー。僕は、トミタ自動車のエンジニアとしてテストエンジンの実験工場に配属され、すぐにケンがチーム長を務める研究部門へ送られた。丁寧に指導を受けているうち、ケンの厚い胸元から、男の汗の匂いと混ざり、仄かに漂って届くアルマーニの香りで昏倒しそうになった。真っ白く健康そうな歯は、いまなお、ケンの逞しさと釣り合っている。大好きになった。夢中になった。
 小さな街だから、どんなことでも忽ち大きな噂となって拡がる。とても、告白などできないと躊躇っていた。それに、僕には分不相応だと思った。新入社員と、チーム長。イケメン・スポーツマンと、不細工顔、みっともない身体。
 不可能を可能にしたのは、インターネットの“ご近所ゲイ・ご紹介”だった。WANTED掲示板の奇跡は、実際に起こるものなのだ。僕は狂喜した。
 シフトが違うから、休みを合わせるのがひと苦労だったが、それは幸せな作業だった。男女の場合でも社内恋愛は隠すのが常だが、僕らゲイの場合は、もともとがそうだ。社内だろうが何だろうが同じこと。その密やかな時間は、不自由さや嘘をつらく感じさせるどころか、むしろ、天国にいるかのような至福に包まれていた。


「お待たせしましたー。うどんランチ、ご注文のお客さまは?」と、係の娘が甲高い声を発した。
「オレのほう。どうも、サンキュー」
 何も変わらない筈がなかった。それに気付きたくないだけだった。
「そうなんだ? だけど、機械を組み立ててるほうが性に合ってるって言ってたから。心配してたんだ。仕事が変わって大丈夫かって」
「ずいぶん時間が経ってるじゃないか。何度も、もう心配するなって、話したろ」ケンは、係の娘が運んできた定食に、早速、箸をつけた。
「そうだった……よね。……」僕は、所在なく感じ、ビールのコップを口元へ寄越した。
 ――どことなくだ。
 こうして、ケンは機嫌良く会ってくれるのだから、何を不満に思う必要があるのかと、僕は解っているつもりだ。でも、どことなく違っていた。納得は、やはりしたくなかった。


“……なら、これからも、会ってくれるの?”
“会えるときには、何にも優先して、お前に会うよ”
“変わらないんだよね? 僕たち、……変わらないよね?”
“…………”

 僕たちは、別れたのだ。ケンに新しい相手ができた。そして、ケンは会社を辞めた。それが、単純な事実だった。背景には、さまざまな出来事があったのだろうが、それ以上のことは、考えたくなかった。
 その、突然の悲しい知らせを聞いたとき、
“……ああ。最愛の弟としてならな……”
 僕は、それでも良いと感じた。弟で充分だ――と。
 初めから分不相応だったのだ、恋人なんて――と。
 ケンにとって、僕が恋愛の対象でなくなったとしても、兄弟にしてくれるのなら、それは同じことだと思い込もうとした。
“僕、お兄ちゃんが欲しかったんだもん。だから、何も変わらない……”
 僕には兄がいなかった。ケンには弟がいなかった。ともに、無いものねだりで、欲しいもの同士を手に入れていたのだ。足りないものをお互いが補っていた。恋愛って、そういうものだろう。男女の恋愛にしても、互いに相手へ求めるのは、家族では足りない何かだったりする。嫁ぐべき運命にある娘は、理想の父のような男性に憧れ、息子は、母で満たされなかったものを、恋の対象である女性に投影させている。僕は、逞しくて優しい兄が欲しかった。寄り掛かっても支えてくれる兄が。
 しかし、夢は疾うに終わっていたのだ。二年ほど前に。


「僕ね、仕上げの仮テストの担当を任されるようになったよ。それでもまだ、リーダーの監督付きたけど」
「そうかあ。そりゃすごいな。お前は、筋がいいから巧くやるだろう。だが、オレが口を酸っぱくして言ってきたように、新しい技術には辛抱が要るんだ。未知の開発だからな。安定した駆動力が維持できなかったら、エンジンはアウトだぞ。いいか。お前らがやっている仕事は、完璧なテストをやることなんかじゃない。実験エンジンのテストは、あらを探し尽くして、いくらでも失敗させるぐらいの気持ちでやらないとな」
「うん。解ったよ」
「良し! いい子だな、坊主!」ケンが、懐かしいフレーズを蘇らせてくれた。
 付き合っていたころ、いつもふざけてそう言ってくれていた。僕が、ケンを兄貴に仕立てていたのを、しっかりと察知していたのだ。
 ケンは、どこか慌しく“うどん”を吸い上げ、噛み砕いていた。
 あのころ、あまりにも幸せだったから、その裏返しで、僕は怯えていた。
 結局、三年近くも続いた恋愛だったけれど、その最中では、恐れもしていた。これは、儚い奇跡で、いつ終わっても不思議ではないのかも知れないと。もとより、僕みたいに姿形の悪い男が、ファッションモデルのようなケンとカップルになれること自体、おかしなことだった。釣り合いがとれていなかったからだ。
 ケンが、どんぶりを持ち上げて、汁を啜り込んでいた。目の前で、ケンの手首から、再びキラリと光るものがあった。高価そうな金色のブレスレットが、品良く重力に引っ張られて、アイロン掛けが効いた純白ワイシャツの袖口の中に消えた。仕立ての良い、藍色のスーツ。ケンは、よく似合う。ライトグリーンの作業服姿だって格好良かったが、ケンは、何をどう着たってさまになる。大都会で生活していたら、きっと俳優としてスカウトされるだろうと想像した。


 ゲイ酒場も無ければ、ゲイサークルなども無い。ここは、小さなトミタの街だから。街中の人間は、ほとんどトミタか関連企業の社員だ。ほじくり返せば、隠れゲイはたくさんいるだろう。街の人口が従業員数なら、会社の中にゲイの組合ができたっておかしくない筈なのに。
 ゲイの情報は、インターネットで得る。エロい画像や動画もだ。この街で、ゲイ雑誌を見たことがなかった。付き合っていたころ、ケンと東京までドライヴ旅行したとき、新宿二丁目を訪れてあまりのオープンさに唖然となったものだった。
 ああ、夢のような東京旅行だった。この、四方八方から監視されているような小さな街を離れ、本当に二人だけになれた時間。深く深く、繰り返し愛を交わした数日間の夜。忘れることなど、できるわけがない。絶対、忘れない。僕は、一生、忘れないさ。
 ディズニーランドへも二回行った。子どもじみているけれど、ケンとお揃いで買ったミッキーの縫いぐるみたちが、僕の最高の宝物だ。くまのぷーさんが好きなケンのために、たしか原宿で、やはり縫いぐるみを買ってプレゼントしたっけ。いまでも、ケンの車に乗っているだろうか。
 同じ寮で生活していたから、ゲイサイト経由で知り合ったネットのゲイ友らは、誰もが僕たちを羨ましがっていた。同棲しているみたいだねって。しかし、現実はかえってつらかった。部屋へ遊びに行けることは滅多になかった。ケンと僕は、上司と部下だったから。タメ口をきけるような同僚同士ならまだしも、長い時間、寮の個室で一緒に過ごすことなど、不可能に近かった。それに、勤務シフトが一致しないことが常だったので、寮の風呂場で出くわすことさえ稀だった。たとえ一緒に風呂場へ入れたとしても、見つめ合うわけにもいかなかった。周りは、知っている人たちばかりだったのだから。


 ランチタイムの居酒屋は、次第に客がはけていった。
 ケンは黙々と昼食を続け、僕はビールばかりを飲んでいた。懐かしい話を、本当はたくさんしたかった。ケンだって、きっとそうに違いないと想った。
「海外旅行――しようって話したことあったよね……」と、僕は、妙な切り口から昔の話を持ち出した。
「え? ……そう、だったな……」ケンの反応は、何となく冷めていた。
「どっかへ、また、二人で旅行とかできたら……いいな……って……」と、話し出したとき、僕には思慮が足りていなかったのだ。
「……それなら、思い切って海外なんてさ、いいよね。サンフランシスコとか、シドニーとか、ゲイの……」と言ってしまって、僕は咄嗟に声をひそめた。「……こっちの人間のメッカみたいなとこ、行きたいなー」
 ケンには、ケンの新しい生活が始まっていたのだ。僕は、その程度の当たり前を忘れ去っていた。幸せだったころを思い出しているうちに、夢想が現実を、どこかへ押し遣っていたようだ。
 どうすることもできない。もう、ケンには‘別の人’がいるのだ。
「……いつか、行きたい……な」ケンの声は、こなされず口腔の中に留まっているようだった。
 そして、ケンの急に暗く歪んだ表情を察したとき、僕は、この日初めてハッとした。
 ――ケンは、苦しんでいたのだ。
 何も変わらない筈がなかった。いつまでも、何も変わらないと、僕が思い込みたいだけだったのだ。ケンは、どこまでも僕に優しい。心の根っこから、優しい。だからこそ、本心では苦しいのに、こうして僕の我が儘を聞いて、会ってくれていたのだ。
(僕、ケンのこと、苦しめてる……?)突然、どうしようもなく居たたまれない気持ちになってきた。


“変わらないんだよね? 僕たち、……変わらないよね?”
“……ああ。最愛の弟としてならな……”


 あれから、およそ二年――。
 僕はもう、ケンから離れてしまわなくてはならないのだと感じた。

 Gooon…… Giiin…… Gaaan…… Gooon……

 突然、チャイムの音が響いた。決して不愉快にさせることのないよう、配慮された合成音。それは、街中に昼休みの終了を告げるチャイムだった。
「さ! それじゃ、オレ、行くぜ」
「あ! 僕も出るよ」
 僕は、これで定時になった。タイムカードを押して終わりだ。前日の夜中からの勤務だった。これから寮へ帰り、ひと風呂浴びて、眠ることになるのだ。
 居酒屋の外に出ると、透き通った初冬の快晴が、刺すように冷たく感じられた。遠くに望める山々の頂きには、すでにうっすらと積もっていた初めての冠雪が、ところどころ白いベレー帽のように見えていた。
「これから、どこかへ廻るの?」と、僕はケンに訊いた。
 駐車場に置いた車のほうへ、真っ直ぐに向かうケンの横顔が、
「ああ……。今日は、親父にくっ付いて、政略と企みに満ちた世界を彷徨うんだ……」自分を罵るように呟いた。
 向こうに、色も形も覚えのあるケンの車が見えていた。
(いまでも、あれ、乗ってるんだ……)僕の心は、懐かしさで一杯になった。
 あのころ、ケンの車の内側だけは、無条件に、僕たち二人の世界だったから。
 しかし、
「さ! ここでいいだろ。ごめんな、全然、時間とか無くて」ケンは、これ以上、先へ進むなと僕に告げたのだ。意味が解らなかった。
「でもさ、ちょっとケンの車、見たいから」
 僕は、ケンが困った顔をしたのも知らずに、そのまま愛すべき思い出の車のもとへと走った。車へ近付くにつれ、後ろ向きにリアガラスから外へ向かって戯けているミッキーの縫いぐるみが二つ見えてきた。東京ディズニーランドで買ったお土産だ。くまのぷーさんもいたいた。僕が買ってあげたプレゼントが、相変わらず大切に扱われていることが嬉しかった。
「昔と、ちっとも変わってないね。また、乗りたいなー」僕は、わざとふざけて、車のサイドガラスに片肘をくっ付けるような姿勢で斜めに寄り掛かり、振り返ってケンを見た。僕のほうへ向かうケンの歩調が、じんわりと遅くなったように感じた。
 僕は、車内を覗き込んだ。僕の特等席――助手席は、以前と同じシートカヴァーで覆われていた。ドアを開けると、きっと昔と同じ匂いがするのだと想った。
 でも、CD プレイヤーの下から突き出していた筈の灰皿が無かった。ケンは、さっきまで居酒屋で、タバコを吸っていたのに。
「ねー。一度だけ、座っても……」
 僕が、そう言って、
「……いい? ……あ!」ケンの表情を確かめようとしたとき、
「あ……、あれ……」後部座席に、僕が見たものは、
「チャイルドシート……」あまりにも意外なものだった。
 傍らで立ち止まったケンは、そっと僕の肩に手を置くと、
「そうなんだ。見せたくなかった……」
「赤ちゃん、生まれたんだ? ……教えてくれれば良かったのに」
「……だって、お前にそんなこと……」
「隠したって、どうせ判ることじゃん。それに、おめでたい……ことなんだしさ……」
「四ヶ月なんだ。生まれたばっかりだったから……」
 そのとき、僕は初めて解けた。


“もう、どのぐらいに、なったっけ?”
“まだ、四ヶ月……。あ……、ごめん……。も、もう半年ぐらいだったな? こないだ会ってから……”


 この日、再会した当初の、奇妙な会話の謎が。
 反射的に、生まれた赤ん坊のことが頭に浮かんだ――ということが、いまのケンにとって、何が一番大切なのかを、はっきりと物語っていた。
「おとこ? おんな?」
「女の子だよ」
「名前は?」
「ゆう……。優秀の‘ゆう’……」
「へえ。……‘富田 優’かー。いい名前だねー」
 ケンは、自分の父親――トミタ自動車の社長、富田忠三郎の仲介で、系列会社――トミタ車体工業の会長・財部藤六のひとり娘と、半ば強制的に結婚させられた。義父の財部は、来年春の、とみた市長選挙に立候補を予定しているらしい。ケンは、実質的に、彼の秘書を任されているようなものだった。
「ケン。……これまで、無理を言って、ほんとにごめんね。……僕さ、もうケンには会わない。会おうって、言わないことにした。……今日で最後にする。それが、きっとケンのためになるって、さっき急に解ったの。……いままで、ありがとう。こうやって、時間を作って、会ってくれて……」
「お前……」ケンが、口ひげをなぞったとき、左手の結婚指輪が、ピカリと陽の光を強く跳ね返した。
「だからさ、ケン。……どうか、元気で。……楽しく、頑張って。僕のことはもう、大丈夫だよ」
「オレは、べつに……」
「いいんだ。……けどさ、一つだけ、最後のお願い……、聞いてくれる?」
「ああ……、な……、何だい?」
 居酒屋の駐車場には、たくさんの車が出入りしていた。この界隈で昼食を終えた大勢のトミタの従業員たちが、三々五々、午後の仕事へ、あるいは帰路へと、分かれて拡がって行く真っ只中だった。
 それでも、ケンは、僕の頼みを明るい笑顔と一緒に、案外快く引き受けてくれたのだ。それが、僕にとっては何よりの救いだったし、
(ケンのこと、好きになって良かった……)強く強く、僕に感動を与えたのだ。
 いまなお、つい――いましがた爆発したように感じる、きっと永遠に忘れ得ぬ、尊い感動を。
 いつまでも、そうしていたいと念じたら、僕はもう涙が止まらなくなった。
「ほんとは、いまでも毎日、お前を、こう……したいんだ……」
 ケンは、やはり瞳に一杯の涙を湛えながら、訝しがる大勢の人目を憚ることもなく、
「……好きだよ。お前のこと、嫌いになんか、ならないからね……」
 僕のことを固く固く、抱き締め続けてくれた――。
「ありがとうね……。ケン兄ちゃん」
 その熱い熱い感触は、いまでも、僕の身体に焼き付いている。

 

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
あまりにも自分の経験とそっくりだったから泣いて読みました。いい作品を拝見させていただきました。

2008/03/31 02:34
>和さん

 読んで下さって、どうもありがとうございます。

 ご感想をいただき、とても励みになりました。
 これから、もっともっと良いものが書けるよう、いっそう頑張りたいと思っています。
 気合いを入れます。
 今後とも、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
円山
2008/03/31 08:10

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