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ほうぼうで、中村中(なかむら・あたる)が話題になっている。 彼女は、歌謡界では珍しく、性同一性障害であることを隠していない。 ヒット曲――「友達の詩」、彼女が15歳のときに書いた詩歌であるその曲を聴けば、だれでも彼女の心のうちを捉えることができる筈だ。 彼女が言う、「触れてはいけない関係」とはどういうことか、女の子の心を持ちながらも男の子の肉体を纏って産まれ出でた彼女の苦悩は、私のようなゲイには近似する精神的要素が多分にあるからもちろんだが、ストレートの人たちにだって、きっと理解されるだろう。 だからこそ、いま注目されている。人気が上昇している。 それは、彼女の卓越した歌唱の才能や創作力とも相俟って。――当然、私はそう解釈している。 手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人が見えていれば上出来 手をつなぐぐらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい 友達くらいがちょうどいい 彼女の素敵な歌唱を、ここで聴くことができる。 http://www.nakamura-ataru.jp/ ところで、性同一性障害とは何だろう。 ウィキペディアによると、 「精神疾患の一つであり、精神的には身体的性別とは反対の性に属するとした方が自然であるような状態の事である」 「彼ら(トランスジェンダー)の状態を一種の精神疾患ととらえた場合の呼称として、性同一性障害(せいどういつせいしょうがい; Gender Identity Disorder)と呼ぶことがある」 ――と、なっている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3 これは、私のような素人に言わせるとかなり冷徹な表現だ。医学的には精神疾患に含まれることになるのかも知れないが、要は、さきほども書いたように、 「女の子(or 男の子)の心を持ちながらも男の子(or 女の子)の肉体を纏って産まれ出でた」人の状態を言うのであって、私の心情的には、病気だと断じてしまうことより、産まれてくる誇りある人間の、あり得べき一つの形である――と、すっきりすんなり、一切の引っ掛かり無しに言い切ってしまうほうが、よほど気分が良い。 とは申せ、彼ら彼女らの悩みは深刻であり、何らかの方法で彼女ら彼らの肉体的違和感を軽減し、心の性とできるだけ一致させてあげるよう「治療」を施す必要から、これを医学的に疾患である障害であると認定することになったのだろう。これにはこれで、建設的意図があるようである。 ただ、私には、以前から気になっていることがある。 トランスジェンダーの中で、肉体的性にとりわけ強い違和感を持ち、性同一性障害として括られる人たちと、 そこまで強い性適合欲求を持たない人たち、 そして、トランスジェンダーにまで至らない――性的指向レヴェルで定義できるような、同じ性へ恋愛感情や性欲が向かう私のような同性愛者たち、 これらを確然と区別しようとの認識が強調されていることだ。 これは私見に過ぎないかも分からないが――、 性同一性障害と認められるほどの、つまり性適合を施したいと願うほどの精神状態、 △ ▽ そこまで強い状態ではないトランスジェンダー、 △ ▽ トランスジェンダーに至らず、性的指向のレヴェルで扱われる同性愛者、 △ ▽ 異性愛的精神要素も混ざって自認される両性愛者、 △ ▽ さらに、性的指向が同性に向くことのない異性愛者、 ――と、これらは全て、同一線上に並んでいて、性別の自認、性愛のヴェクトルがどちらを向きどのぐらいの強さであるかとの、方向・傾きおよび濃淡によって、各人の立ち位置が示されるのだろうと考えると、私としては、とてもしっくり理解できるのである。 私は常々、これを性愛――セクシュアリティーのグラデーションと呼んでいる。 【参考】 http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shisei/zinken/danjokyoudosankaku/kisotisiki.jsp したがって、極端な言いかたをすれば、性同一性障害の人たちと、私のように男として男に恋心を抱くゲイと、大多数を占める異性愛者=ストレートと、これらのあいだには境界線や障壁があるのではなく、それぞれの性的指向、性愛傾向のヴェクトルが、その人なりの濃さと向きを持って、一本の同じグラデーションのどこかに存在していると、――ただそれだけのことだと想えるのである。 ところが、社会一般の通念には、こういうグラデーション感覚が乏しいと感じる。 たとえば、東京都人権施策推進推進指針(2000年11月発表)の記述を見てみよう。 http://www.metro.tokyo.jp/INET/KEIKAKU/SHOUSAI/70ABL101.HTM#2 第2章・指針策定の背景――2・東京における人権に関する現状――(2)・東京における人権問題の状況――と辿ってみる。 すると、女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者等、犯罪被害者やその家族、――これらについての指摘が続いたあと、一番終いに――「その他の人権問題」として括られた中で、ようやく、 「性同一性障害のある人々などに対する偏見があり、嫌がらせや侮べつ的な言動、雇用面における制限や差別、性の区分を前提にした社会生活上の制約などの問題があります。また、近年、同性愛者をめぐって、さまざまな問題が提起されています」 同性愛者の人権に関わると思われる項目は、たった一文だけ、「さまざまな問題が提起されて」いるとだけ、あっさり触れられているに過ぎない。共に扱いかたが小さい中ではあるが、性同一性障害を持つ人たちと同性愛者とでは、東京都行政側の観点に、一層明白な差違が見て取れるのである。 同性愛など、性的指向に基づく概念は、疾患として扱われていない。 私自身の感覚としても、ゲイであること――ゲイネスを病気だと捉えたことは一度もないし、従ってゲイネスを治療して「治る、治らない」という見方をして欲しくない。ゲイあることを、一つの健全な性のありかたとして理解、受容して頂きたいとかねがね考えているのだ。 実際のところ、世界保健機構(WHO)によって、露出症、のぞき、SM、小児性愛、獣姦、死体姦などは、性嗜好障害として治療を要するとされているいっぽう、同性愛は、そうした治療対象には含まれていない。 ところが、こうした経緯から、同性愛が宙ぶらりんな解釈の下におかれている感は否めないのである。 繰り返すが、性同一性障害も”普通の”同性愛者も、同一線上に存在している。性愛傾向のグラデーションは、一本に連なっているのだ。 一般論として、人が何かの病気に罹ってしまったなら、治すよう努め、治れば楽になるし、周りからも”良かったですね”と言われる。誰でも、病気を患っている人に対しては、いたわりの心を抱くし、早く健常たれと願いもすれば協力だって惜しまないだろう。 ところが、同性愛と聞くと、途端に訝しげな顔をされたり、怯えられたり、避けられたり、――つまり、嫌悪の対象にされることや、奇異の目で眺められることはあっても、普通は、滑らかに受け入れられることが少ない。 ゲイは病気ではない。病気だと思われたくもない。 しかし、性同一性障害、あるいは性嗜好障害を持つ人たちに対する扱いとは、また一つ違う、 「何だ、ゲイという連中は。病気でもないくせに」 実に中途半端なぶら下がりかたで、人々から認識されている――と、そのような思いが、ゲイである私自身に突き刺さってくるのである。 私の場合は、強迫神経症である。いまは、強迫性障害と呼ばれている。やはり、精神疾患の一つだ。 とは申しても、幸いにして軽度なので、私自身は生活に支障をきたすほどではないだろうとの意味で、障害と言うより神経症と言っておいたほうがちょうどよい感じがする。 ゲイの友人――A氏から強迫神経症の治療薬でもある抗うつ剤を譲って貰っているが、それは良いことではない。精神科医の診察診断を受けて、これからのち、正規の治療を受けようかと考えている。ただし、私としては、もはや治る病気だとは思っていない。 子どものころは、これは単に、性格の一端だと理解しようとしていた。家族が、 「お前は、いろんなことをいちいち心配して、ほんに心配症だねえ」と、嘆いていたからだ。 私は、自分自身で”オレは心配ばかりする性格なんだ”と納得することで、おのれに起きている事態を受け入れようとし、ときに周囲に対しても、あまりにさまざまな事柄を心配してしまう実態を、自ら笑い話に混ぜ返して紛らわせていたのである。すなわち、これからさきに想定される嫌なこと避けがたいと想われること、それらをリストアップしてベッドの枕元に貼り付け、毎晩寝る前に、それら心配事リストとその対策シナリオとを、しっかり熟読し暗証し頭に叩き込むことで、やっと安眠の床に就ける、――そのような私の姿を包み隠さずに晒して、自虐的に嗤って見せることで、家族ら周囲の人間との間に境界線や地割れが生じることを緩和してきたのだった。そうでもしないと、私は絶望的な孤独感に陥って、心の殻の中に閉じ籠もってしまっていただろう。 そして、ふと周囲を見渡すと、私の知っているゲイの友人知人には、何らかの精神疾患に罹っている人がポツポツとある。鬱病、パニック症などが主だっているようだ。ミクシーのコミュニティーの中には、鬱病を患っているゲイが情報交換する主旨のものまであるから、ことによると、ゲイで鬱病などの精神疾患を持つ人は、少なくないと考えるべきかも知れない。 無論、私の親類にもパニック症の者がいるし、いまのストレス社会は、この渦中に生きているだけで、さまざまな精神疾患に襲われる恐れがある。だから、当たり前の話だが、心の病があるからゲイであるわけでもなければ、逆に、ゲイは必ず精神を病んでいると言っているのではない。 しかし、想像して頂きたい。 日常の一定部分で、ゲイは、自分の本当の姿を隠し続けなくてはならない。これは、相当の精神的負荷であって、とても苦しいことなのだ。 鬱病、パニック症、あるいは私の強迫神経症、――こうした心の病を抱えるゲイが少なからずいる事実は、ゲイであることを伏せ、異性愛者と同じように振る舞わなくてはならない、場合によっては意に沿わない結婚までして、終生、おのれの有り様をカムフラージュしなくてはならない、――このような生きかたを強いられることに原因があるのだろう。 こう書くと、それはゲイという道を選択したからだ、自業自得だ、――などと言う人がいる。 違うのである。ゲイというセクシュアリティーは、持って生まれたものなのだ。性同一性障害も異性愛も同様に、セクシュアリティーのグラデーション――その一端に存在するだけのことである。 中村中の苦悩は、私たちゲイと同じ根っこから生じていることを、どうか知って欲しい。性同一性障害も同性愛も、セクシュアリティーのグラデーション――連なる同じ一本の線の上に乗っかっているのだと。 そしてそれは、異性愛者=ストレートである人たちの心にだって、同じように連なっている。 手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人が見えていれば上出来 手をつなぐぐらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい 友達くらいがちょうどいい 外見が男の子であるがゆえに、男の子に恋をすることが許されない。 たとえ、本当は女の子の心を持っているのだとしても。 大切な人は、ただ見えていれば上出来。 大切な人は、友達ぐらいにしておくのがいい。 手を繋ぐことはもちろん、並んで歩くことだって、危ういのだから。 あなたがストレートなら、大好きになってしまった大切な人が、もし、絶対に自分の手が届かないところにいる人だったら――と想像して下されば良いだろう。 中村中の場合は、それから私たちゲイの場合も、日頃の生活の中、自然な流れで惚れてしまう人は「必ず」手の届かないところにいる。だから、私などは仕方なく、二丁目のゲイ酒場などでゲイの中から、惚れそうな人を探す必要に迫られていた。しかし、中村中はゲイとしてではなく、女性として恋がしたかったに違いない。心情的には、ゲイ酒場で、易々と解決できることではないのだ。 ゲイとして、つまり自分自身を男だと自認して男が好きになることより、戸籍上は男でも、自分自身が女だとしか感じられず、必然、男の人に恋をしてしまう中村中の心持ちのほうが、一層色濃い苦しみを含んでいる。 しかしそれは、ストレートの人たちの心根にも、きっと通じることである筈なのだ。 セクシュアリティーのグラデーションは、一本に繋がっているからである。
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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スティーヴィー・ワンダーは盲目であるばかりか、味覚や嗅覚も失われているそうです。しかし人々は彼の曲からあざやかな色彩や香りを感じることができます。中村さんの音楽もしかり、彼女の歌はジェンダーの壁を越えて、誰もが一度は経験したであろう「手の届かない」心情を、人々の記憶から導きだします。 |
darimana 2006/10/12 06:17 |
darimanaさん。誰もが一度は経験したであろう「手の届かない」心情――、そう共感して頂けるだけで、性的少数者とそうでない人々とを隔てている壁が、瞬時にして溶け去ってしまう筈です。 |
円山てのる 2006/10/12 14:30 |
「セクシュアリティーのグラデーション」という考え方は、私にとっては新鮮でした。言われてみれば、本当にそうだなと思います。はっきり線引きする必要もないんだなと・・・。 |
ぽち 2007/01/19 14:14 |
> ぽちさん、コメントありがとうございます。 |
円山 2007/01/19 18:20 |
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