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植村が日本に帰ってきて、もうすぐ半年になる。 「あ…。また来たのか」 けっして愛想の良いミセではない。 「それはないだろ。ここを目掛けて駅から脇目もふらずに歩いてきたのに」 「そうかい」 むしろその逆で…ぶっきらぼうなミセ…と言ったほうが正しい。それでも植村は大のお気に入りだった。 「めちゃくちゃ暑かったね。今日も」 客はまだ一人だけだった。金曜の夜。もうじき時計の短針は10の真上にくる。 「嫌いかい…暑いのは」 「蒸し暑い国だね…ここは」 アメリカに渡って十二年あまり。本物のカクテルを極めようと修行を積んだ。 「嫌なら向こうに戻りな」 そして遂には一流バーテンダーとしてニューヨーク、シカゴ、そしてサンフランシスコを制覇した。この世界では知る人ぞ知る王者なのである。 「帰る家はもうないんだよ。話したろ?」 名声を博した植村であったが、今回の帰国は傷心の旅路だった。愛する人を失ったのだ。 「それなら文句言うな」 それは植村にとって栄光の地であるアメリカを去り、華々しいトップバーテンダーという地位を棄てる決断をさせるほど、悲しい試練だった。 「相変わらずだな、久さんは」 「どうせ冬になれば寒い寒いと煩いんだろ…。勝手なもんだ」 久さんと呼ばれたこのミセの主人は、植村が初めてカクテル作りの教えを請うた人物だった。 「何が本物のドライマティーニだ。そんなものありゃしない」 まだ若かった植村は、そんな久さんの言葉に逆らった。 「ないわけがないよ。正しいレシピ。忠実な配合。最高のコンディションの素材。それから完璧なシェイク。本物は絶対にある」 「分かってねえな、ひよっ子。カクテルは心だ。作るたんびに同じでいいなら、そんなもの機械に作らせときゃいい」 バーテンダーというのは、全く均等均一な茶碗を繰り返し同じように作り続ける職人とは一味違うのだ…と、久さんは説いた。 「いいか。冷たいビールを飲みたい客には、そのビールの銘柄や味がどうとかいうことよりも、飛びっきり、飲むと痛てえほど冷やしてある…ってことのほうが大事だったりするんだぜ。それがバーテンダーの本当の仕事だ」 サンフランシスコのヒルトンホテルにいたころ、カクテルラウンジで出逢ったMickは、初めとてもシャイで大人しかった。 言うまでもなく…そこはゲイが集まって呑むような特別な酒場ではなかったが、植村はひと目でMickの正体を見抜いていた。そこがどこであろうと、お互いの立場がどうであろうと関係ない。チャンスは逃すべきでなかった。だから、植村はカウンターの手前から…じっと正直に…Mickの眼を見詰めたのだ。 Mickは、十秒間ほど植村の視線をダイレクトで捉え、そしてそのまま真四角な漆塗りのコースターに眼を落とした。飲み物がまだだった。 何の注文も受けていないのに…植村は“コアントロー”のボトルをMickの目の前へと静かに置いた。するとMickは、自分の透き通るようなサファイアブルーの照準を植村にピタリと合わせ、 「Margarita…」 美しい少年のような顔に不釣合いな芯のある太い声で…はっきりとそう答えて弾けるように微笑んだ。 (驚いたな。中々できる奴だ…) フランスの銘酒コアントロー。…実はマルガリータの本物のレシピの中で、ホワイトキュラソーの銘柄としてしっかり指定されている。それは、植村が発した問いに対する明瞭な返答だったのだ。 まるで何かに憑り付かれ、先急ぐかのように二人は愛し合った。 それからの…アメリカでの最後の四年間。植村は…とうとう本物の幸せを掴み取ったのだと思った。 「可哀想なことをしたな」 久さんは、帰国の顛末を聞き終えたあと…まず一言だけ、ぼそりと応えた。 それからゆっくりと植村に顔を向けると、 「そんじょそこいらの若僧じゃ、コアントローって酒に、妖しい…くどき…の意味があるなんて、まあ…、確かに知りっこねえがね」 その小さな目から優しい瞳が穏やかに慰めているのが、 「まさか…あんなことが現実に起こるなんて」 抑えていた植村の…涙の均衡点を解き放つ切っ掛けとなった。 ちょうどクリスマスの次の日だった。Mickと植村は、夜のゴールデンゲイトブリッジの傍でたまたま遭遇した発砲事件に巻き込まれた。その時…不運にも…Mickの胸に流れ弾が当たり、そして最愛の男は植村の腕の中で息絶えたのだ。 「なあ、あんた。あのカクテルにはジャン・デュレッサーの悲しい過去への想いが込められていたんだぜ…有名な話じゃないか」 マルガリータを初めて世に送ったそのバーテンダーは、かつて狩りの途中に流れ弾を受けて死んだ恋人Margaritaへの思慕の念をそのカクテルの名に込めたのだという。 「本物を知っていたのに…Mickは」 植村は咽びながら、年輪の浮き出たカウンターを無念そうに何度も叩いた。 「あんたが…その本物とやらにこだわり過ぎたせいかもな…そんな悲しい経験をするなんて」 「………」 「さ、あんたも呑めや。ほんに暑かったな。今日は…」 そう言って…久さんは凍り付いたように充分冷えたアサヒの缶ビールを…作法も何も関係なく…無雑作にシャンパングラスに注ぐと、一気に呷って美味そうに笑って見せた。 |
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カクテル一杯から広がる世界観が泣かせます。 |
真名あきら 2006/03/21 18:32 |
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